事の起こりはこうだ。ある晴れた日の朝、君はどうしようもない不安と焦燥に駆られて、あてどもなく医師の門を叩く。いくつもの関門を潜り抜け、受付の前に受付があり、受付の中にも受付があり、また受付の後にも受付が続くような不可解な構造をした待合室でさんざん待たされたあげく、ようやく診察室に招き入れられると、君はこう告げられるのだ、癌ですってね。ここで君の人生の設計図は大きく狂う。望むと望まざるとにかかわらず、僕たちは突如として冒険に駆り出されるのだ。朝の日差しに美しく輝く流線型のポップアップトースターからこんがり焼けたトーストが吐き出されるところをじっと眺めている君が、エスプレッソをダブルで頼んで鞄を片手にエレベーターの点滅する数字をじっと眺めている君が、夏の正午に塗り始めた白いペンキが夕空の下で茜色に乾いてゆくさまをまばたきもせずに眺めている君が、突如として見知らぬ世界への冒険に駆り出されるのだ。僕たちは、まるで異なる世界に転送されてしまったかのように、ある非合理で冒瀆的な場所に投げ出されてしまう。言葉でできた世界の終わりに位置するような不合理で救いのない場所だ。ここでは僕たちは何と無防備であり、何と脆弱であり、そして何と無力であることだろうか。まるで深い傷を負ったように、僕たちの日常の表面が裂けて、普段目にすることのない禍々しいものが剥き出しになっている。とてつもなく不気味なものが怖ろしい形相をして僕たちを睨みつけている。何か得体の知れないものが凄まじい騒音をかき鳴らして僕たちの足を竦ませている。ここでは死というものの片鱗がグロテスクに露出しているのだ。厳しく言葉を拒むものが残酷なまでに剥き出しになっているのだ。僕はここから、この場所から、冒険の書をしたためようと思う。それは僕が見た、あるいはこれから体験するであろう冒険の記録であると同時に、書くことの冒険をめぐる記録でもあるにちがいない。この冒険は心を躍らせてはるか遠方へと向かう冒険の旅ではなく、この理不尽な場所からかならず生還しようとする冒険の旅だ。この旅のなかで僕は多くのものを失うかもしれない。しかし、この冒険のなかでしか目にすることのできない光景もあるだろう。僕はそれを言葉にしようと思う。それを言葉に変えて書物に記そうと思う。おそらくこれらの言葉は、冒険者にしか手にすることのできない財宝のありかを記した秘密の地図のようなものであるにちがいない。僕はこの地図を手に帰還するのだ。冒険の旅を終え、あの退屈で騒がしいこと極まりないが、とてつもなく貴重な僕たちのエヴリデイ・ライフに帰還するのだ。(続きを読む)
*死を見つめ、病を見つめ、これに打ち勝とうとする力――。読む人を圧倒する力強い筆致で癌という病と闘う日々を綴る千慶烏子の闘病記『冒険者たち』。闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。絶賛発売中!(P.P.Content Corp.編集部)
*収録作品より
冒険者たち その二「未熟な兵隊」
冒険者たち その四「困り顔のマデリン」
冒険者たち その六「光の痕跡」
冒険者たち その十八「イスキアの修道女たち」
冒険者たち その二一「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」
僕たちはさよならを言わない。僕たちは涙を見せない。再び会う日までさよならはお預けにするのだ。それが冒険者というものなのだ…(本文より)
――詩人が詩を書く意味とは何か。しばしば問われるこの抽象的な問いかけに対するきわめて具体的で明瞭な回答を読者の皆さんは本書に見いだすことができるだろう。本書にあるものをずばり一言で言い表すならば、それは「詩の力(poiesis)」である。それは、その詩的創造の過程において、詩人がみずからをその力によって目覚めさせ、奮い立たせ、立ち上がらせるような力であり、困難な状況を生きられるものにする力である。
闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。全盛期千慶烏子を代表する傑作『冒険者たち』。
ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。
──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)
ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓をふるわせる──。
デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。 人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか──。予断を許さない大胆な構成のもとで繊細かつ多感に繰り広げられる千慶烏子の傑作長編詩篇『デルタの恋』。