入り口には低いコンクリートのベンチのようなものが並んでいるばかりだ。しかし、広大な敷地に踏み入ってゆくと、コンクリートのベンチはやがて腰の高さになり、胸の高さになり、またたくまに人の背丈を追い越して、柱のように高く聳え立つようになる。この地で繰り広げられた虐殺の犠牲となった人びとを悼むコンクリートの石碑は実に二千体以上ある。整然と植えられた糸杉のように、あるいはこの世の始まりからそこに存在している巨大な石の柱のように高々と空に向かい、コンクリートの石碑は格子の目に並ぶ。そのあいだを縦横に縫って歩道は走るのだが、道幅は狭い。明け方に降った雨のせいか、そそり立つコンクリートは黒ずんで見え、圧倒的なそのたたずまいに畏怖の念すら覚える。そこには慈悲を乞わせ、奴隷化し、人間であることを諦めさせるような力のもとで、屈服を余儀なくされ、陥落し、蹂躙された人びとが残した嘆きのようなものが屹立している。犠牲となった人びとのやり場のない憤りと悲しみが宙を仰ぐように聳え立ち、黒ずんだコンクリートの巨大な迷路のなかに、あるいは歴史の迷路のなかに、もしくは人間というものの迷路のなかに、来訪者は迷い込んでしまう。自分たちはどこから来たのか、そしてこれからどこへ行こうとしているのか、人びとは何をしてきたのか、そして何をするべきだったのか、あるいはこれからどうしてゆくべきなのか、終わりのない問いかけの迷路に来訪者は迷い込み、思い惑うてしまう。それは人間性の惨劇の記憶が投げかける終わりのない問いかけの時間だ。人間であるとはどういうことかと死者から問われている過ぎ去ることのない時間だ。考えを巡らしながら歩道を歩いていると、壁のように屹立しているコンクリートの石碑と石碑のあいだから、ほんの一瞬だけ目の前を人が通り過ぎる。まるでシャッターを切って一瞬の光景が切り取られたかのように、光にさらされて目の前の歩道を人が通り過ぎるのが見える。それは、軽やかな夏の装いを楽しんでいる少女であったり、子供の手を引いている若い家族であったり、長く連れ添った伴侶に車椅子を押されている老婆であったり、考えごとをしながら歩いている男であったり、過ぎ去ることのない死者たちの嘆きの時間のなかに、生きている者たちの過ぎやすい時間がほんの一瞬だけ光にさらされて目の前を横切る。それは瞬く間のことであり、移ろいやすく、過ぎやすい時間だ。しかし、光に溢れて美しい。死ぬことはないと思っているのが人間なのかもしれない。永遠の存在であり、不死の存在であり、歴史の彼岸に立ってその最終頁を書き記す権利を与えられた存在だと思っているのが人間なのかもしれない。しかし、その本当の姿は瞬く間に過ぎ去る者なのだ。アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮だとテオドール・アドルノは言ったが、人が生きていられる時間は短い。まるで足早に過ぎ去ってゆくヨーロッパの夏のように短い。せめてその過ぎゆく時間が光に溢れ、喜びに満ちたものであって欲しいと願いを記すことは、詩を書く人ができる数少ない人間性への貢献ではないだろうか。(続きを読む)
*死を見つめ、病を見つめ、これに打ち勝とうとする力――。読む人を圧倒する力強い筆致で癌という病と闘う日々を綴る千慶烏子の闘病記『冒険者たち』。闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。絶賛発売中!(P.P.Content Corp.編集部)
*収録作品より
冒険者たち その一「事の起こり」
冒険者たち その二「未熟な兵隊」
冒険者たち その四「困り顔のマデリン」
冒険者たち その六「光の痕跡」
冒険者たち その十八「イスキアの修道女たち」
僕たちはさよならを言わない。僕たちは涙を見せない。再び会う日までさよならはお預けにするのだ。それが冒険者というものなのだ…(本文より)
――詩人が詩を書く意味とは何か。しばしば問われるこの抽象的な問いかけに対するきわめて具体的で明瞭な回答を読者の皆さんは本書に見いだすことができるだろう。本書にあるものをずばり一言で言い表すならば、それは「詩の力(poiesis)」である。それは、その詩的創造の過程において、詩人がみずからをその力によって目覚めさせ、奮い立たせ、立ち上がらせるような力であり、困難な状況を生きられるものにする力である。
闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。全盛期千慶烏子を代表する傑作『冒険者たち』。
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。
Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。
自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら…(本文より)
脱現代性の詩的方法論──。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして詩人の作り出した新しい文学上の方法論だ。英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論だ。──対抗的であり、挑戦的であり、攪乱的であるような想像力のかたち。千慶烏子のポエジー・デコンタンポレヌ。珠玉の三十篇を収録。