センクエイコムのPDFは、非常に美しく洗練されたデザインとレイアウトで提供されています。電子書籍が普及する前に出版された、これら千慶烏子の先駆的なデジタル作品は、初版発行から約二十年の歳月を費やして、ようやく日本書籍出版協会のデータベース日本書籍総目録に書籍として登録されるようになりました。
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて…(本文より)
この海に終わりがあることをわたしは知っている。でも言わない。あの空に限りがあることをわたしは知っている。でも言わない。夕映えにかすむ希薄な空を染めて遠く沖合いに沈もうとするわたしたちヘスペリアの太陽は、本当は太陽ではなく、太陽の廃墟だということをわたしは知っている。でも言わない。言わないのは禁じられているからではなくて、誰もわたしに聞こうとしないから。訊いてくれたら話してあげるかもしれないけれども、誰もわたしに聞こうとしないから。永い永い航海の果て、弔いの歌もなく死んでいった男たちのことをわたしは言わない。もはや忘れられて久しい故郷の歌と残された子供たちの旅路の行方を…(本文より)
海辺にひびく鳥の声を美しいと思った。頬を撫でて行き過ぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。もう二度とパリに戻ることはないかもしれないというわたしたち家族の深い絶望の色で、瞳に映るものすべては暗く沈んでおり、また、夜ともなればいつも父を苦しめる亡姉レオポルディーヌの痛ましい記憶にわたしたち家族の思い出は逃れようもなく囚われており、わたしたちは、パリを遠く離れた小さな島の小さな街で息をひそめるように深い喪のただなかにいた。しかし、海辺にひびく海鳥の声を美しいとわたしは思った。頬を撫でて行きすぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。この肌にふれる海のひびきが…(本文より)
あなたの息がその女のからだをみずみずしくあらわにひもといて、そこに、その女のからだのそこに、あおあおとしてゆたかなみどりをしずかにみちわたらせてゆくだろう。あおい風。あおあおとしてあわい風。あわあわとしてあらい風。その女のドレスのすそをはためかせるようにして、萌えさかる夏のはじめに、いちはやにさらってきたその女のドレスのうすい花びらをあらあらとそこに吹きちらしてなお、そのやわらかい蕊のさきに、そのやわらかい葉ずえのさきに、そのひめやかな受粉の期待にぬれるその女のやわらかなさきに、しずかに緑のしずくをしたたらせてゆくあなたのそのそれ…(本文より)
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの胸乳をおのおのの口に吸い合うのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をしめて、おのおのの口に青い鱒をつりあげるのです。水しぶきをあげて勃起している青い魚をおたがいの口にさがしあてては、それをおのおのの口に吸い合うのです。そうしてあなたはわたしの野良猫のようにまるいおなかに、そうしてわたしはお兄さまの牝猫のようにきれいなおしりに、杜撰な虚言を突き立てあってはおたがいの青い鱒をおのおのの口に吸い合うのです…(本文より)
男は鳥の滑空についてわたしに語りはじめるだろう。防波堤と時のゆるやかな腐食について男はわたしに語り聞かせるだろう。男の胸にゆだねられたきささげの白さを、男の胸にかさねられたわたしの胸の透けるような白さを、それとも男は愛したのだろうか。それとも騎乗する肉体のたけだけしさを男は愛したのだったろうか。ときおりその口唇にあたえられ、あたえられてはのがれてゆく乳房のはずみ、ときおりその口唇をあかるませるわたしの胸のあわい暈、その乳暈にくれそめた午後の日のおだやかな翳りを男はいっそう愛したのだろうか。それとも…(本文より)
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの美貌におのおのの名前を呼び合うのです。あなたは妹の黒い喪章をつけ、わたしはお兄さまの黒い腕章を結んで、おたがいの美貌にやさしい指尖をさまよわせあうのです。そうしてあなたは、お美しいあなたの美貌とうりふたつの妹の美貌にあなたの名前をお呼びになって、わたしはわたしで、わたしのお顔とうりふたつのお兄さまの美貌にわたしの名前をお呼びして、そうしてくすくすわらってひとつの吐息に縺れ合ったり、吸う息のあいまあいまに吐く息を取り違えたりもしながら、ひどくつつましやかにおたがいの名前を交換するのです…(本文より)
わたしは瞳をとじるだろう。瞳をとじて男に接吻をあたえるだろう。海洋をめぐる一連の感情が、わたしの口腔に揮発するのをわたしはそこに見るのだろうか。夜をめぐる不毛なくりかえしが、わたしの瞳にまぶしく息を吹きかえし、わたしのからだにあふれるような樹木の枝をはりひろげてゆくのを、たしかにわたしは見いだすのだろうか。岸によせる潮のひびきがわたしのからだをみずみずしくうるおし、男の息にみちよせる潮の音色がわたしのからだのくまぐまをみたし、そこに、わたしの胸のたかまりのそこに、わたしの息のゆたかさのそこに、わたしのからだの奥深さのそこに、男のからだが、男の息がまざまざとある、そのような…(本文より)
海辺にひびく鳥の声を美しいと思った。頬を撫でて行き過ぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。もう二度とパリに戻ることはないかもしれないというわたしたち家族の深い絶望の色で、瞳に映るものすべては暗く沈んでおり、また、夜ともなればいつも父を苦しめる亡姉レオポルディーヌの痛ましい記憶にわたしたち家族の思い出は逃れようもなく囚われており、わたしたちは、パリを遠く離れた小さな島の小さな街で息をひそめるように深い喪のただなかにいた。しかし、海辺にひびく海鳥の声を美しいとわたしは思った。頬を撫でて行きすぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。この肌にふれる海のひびきが…(本文より)
ひるがえってたなびく雲のおおいがゆるやかにほどかれわたしはさむいというのだろうか。ふかく手をついてくずれるようによこたえたわたしのからだに海のひびきがしろく揺れ、そこに兆すであろう明けの予兆をひどくいとわしいものとそれともわたしは思うのだろうか。夜更けに焚べた火のくらさなど、夜半に焚いた火のくらさなどもうとうにわすれてしまって、そこにひびく潮のかげりに葬送の、もしくは埋葬のこだまがよこたわり、もうとてもわたしはだれであるのかおぼえていられないような気がすると、それともわたしはつぶやくのだろうか。もうとうにそれがだれであり、もうとうにだれであるのかをわすれてしまいそうに…(本文より)
その女の息がしだいにあらわに急いてゆくにつれ、その女のそれがしだいにゆたかにうるおうにつれて、野の草のたけるがごときあおあおしさをますあなたのそれを、その女はそのようにして愛するだろう。ふかいみどりをこめてたけだけしくおごるあなたのそれを、ややもすればせいて、その女はそのように愛するだろう。そのおごるというおごりのあなたのそれを、そのたけるというたけりのあなたのそれを、さなきだにあおあおしい夏草の、あわあわしい蕊を愛するがごとき愛しかたで、その女はそのようにするのだろう。指をからませるその女。髪に手をやるその女。そうしてはつ夏の果実のまどかなそれがあなたの肌にふれてかたくなる…(本文より)
ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓をふるわせる──。
デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。 人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか──。予断を許さない大胆な構成のもとで繊細かつ多感に繰り広げられる千慶烏子の傑作長編詩篇『デルタの恋』。
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。
Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。
自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら…(本文より)
脱現代性の詩的方法論──。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして詩人の作り出した新しい文学上の方法論だ。英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論だ。──対抗的であり、挑戦的であり、攪乱的であるような想像力のかたち。千慶烏子のポエジー・デコンタンポレヌ。珠玉の三十篇を収録。