なぜわざわざアメリカから東洋のこんな地図の果ての国に来て、死を迎えようとしているのか僕にはとうてい理解することはできなかった。トミーと呼んでくれとハワードさんは言うのだったが、父親以上に年の離れたアメリカ人を愛称で呼ぶのは、礼儀正しい日本人の僕にはどこかしら気が引ける思いがあった。年老いたハワードさんの治療は僕たちのものとは異なって、痛みを緩和するための治療で、悪性の腫瘍は全身に散らばっており、このアメリカから来た写真家は自分の死が近いことを知っていた。旅のつれづれに写真を撮ってきたのか、それとも写真を撮るために旅をしてきたのかはもうよくわからなくなってしまった。長らく連れ添ってきた日本人妻と死別してからは、もはや自分には旅を続けてゆくよりほかに方法は無くなってしまったのだとハワードさんは言うのだった。ハワードさんは手狭な病床のなかでもカメラを手放すことはなく、毎日のルーティンワークが延々と続く入院生活に写真の題材になるものはないだろうと僕は思っていたのだが、光が変わるともうそれだけで写真になるのだと言って、この年老いた写真家は病院で撮影した彼の仕事を見せてくれるのだった。旅をしてきた国々のステッカーが貼られたスーツケースをクローズアップで写した写真や、背中を見せて笑っているナースたちの一瞬を写し留めた写真、リネン交換の日に埃が舞い上がって朝の日差しに逆光で浮かび上がっている写真など、さすがにプロフェッショナルだなと思わせる写真が幾枚もあった。君が本を書いているのなら、何枚かもらってくれてもいいとハワードさんは笑顔で僕に言ってくれるのだった。腰を落ち着けてゆっくり話をする時間はなかったものの、僕たちのあいだにはおそらく芸術家同士の心の交流のようなものが生まれていたのではないかと思う。治療の中休みで一旦帰宅するから、そのときに本を持ってくるよと僕は言ったが、ハワードさんは、残念だがもう本を読む気力すらないんだ、とりわけ外国語の本はね、と悲しそうな声で答えるのだった。僕はいろいろ考えた末、はちみつをたっぷり溶かしたアールグレイと交換にアメリカ人写真家の作品を譲り受けることにした。自分は天上的な光とは無縁なんだ、と苦しそうな表情を浮かべてベッドから起き上がりながら、写真家は僕に語るのだった。自分は若いときに祈りの言葉を捨ててしまったので、こういう時だけ神さまを持ち出すのは不敬虔だと思う。ただじっと痛みに耐えるのが自分にとって一番誠実なあり方ではないだろうか。もし神さまがいるのなら、僕が写し留めてきた一瞬一瞬の地上的な光のなかに、その痕跡のようなものが残されているのではないかと僕は思う。そう語る写真家の言葉は、不敬虔な西洋人の信仰告白のようなものだったのかもしれない。僕が治療の中休みでしばらく帰宅しているあいだにハワードさんは旅立ったらしい。親しくしていたナースは、あのアメリカ人の写真家はナイコンのストラップを首にかけて最後までカメラを触っていたわと言って僕を慰めてくれた。内緒にしていてね、そう言って彼女は遺品のカメラを僕に手渡してくれたのだが、そこに写っていたのは、おそらく無意識のうちにシャッターを切ったものだろう、ほとんど真っ白に暴露した、被写体のいない、しかしどこまでも光に溢れた写真だった。何枚も何枚も終わることなく、彼のカメラのモニタには、光に溢れた写真が続いていた。おそらくこのアメリカから来た写真家は、その長きに渡る冒険の果てに、彼のこよなく愛した地上的な光に包まれてこの世から旅立って行ったのではないかと僕は思う。(続きを読む)
*死を見つめ、病を見つめ、これに打ち勝とうとする力――。読む人を圧倒する力強い筆致で癌という病と闘う日々を綴る千慶烏子の闘病記『冒険者たち』。闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。絶賛発売中!(P.P.Content Corp.編集部)
*収録作品より
冒険者たち その一「事の起こり」
冒険者たち その二「未熟な兵隊」
冒険者たち その四「困り顔のマデリン」
冒険者たち その十八「イスキアの修道女たち」
冒険者たち その二一「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」
僕たちはさよならを言わない。僕たちは涙を見せない。再び会う日までさよならはお預けにするのだ。それが冒険者というものなのだ…(本文より)
――詩人が詩を書く意味とは何か。しばしば問われるこの抽象的な問いかけに対するきわめて具体的で明瞭な回答を読者の皆さんは本書に見いだすことができるだろう。本書にあるものをずばり一言で言い表すならば、それは「詩の力(poiesis)」である。それは、その詩的創造の過程において、詩人がみずからをその力によって目覚めさせ、奮い立たせ、立ち上がらせるような力であり、困難な状況を生きられるものにする力である。
闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。全盛期千慶烏子を代表する傑作『冒険者たち』。
自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら…(本文より)
脱現代性の詩的方法論──。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして詩人の作り出した新しい文学上の方法論だ。英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論だ。──対抗的であり、挑戦的であり、攪乱的であるような想像力のかたち。千慶烏子のポエジー・デコンタンポレヌ。珠玉の三十篇を収録。
ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。
──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)