CLAIRE

クレール 2017

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-06-0, 978-4-908810-08-4

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。

Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。

* * *

本書は『Claire』の表題で叢書『Callas Cenquei Femmes』の第三巻として2006年P.P.Content Corp.から出版された。千慶烏子のシリーズ作品『Femmes』の概要に関しては、『アデル』の購読案内で紹介しているので、ご覧いただきたい。

これまで『アデル』『デルタ』の購読案内をご覧いただいた読者の皆さんならば、千慶烏子のこのシリーズ作品に共通する特徴をすでにご理解いただいているかもしれない。重複することになるが、簡単に解説しておきたい。

作品はいずれも女主人公の語る「わたし」という一人称の話法で構成されており、彼女の目を通して作品世界は描かれる。女主人公の語る物語内容(イストワル)だけでなく、彼女の語る物語行為(ナラシオン)そのものがテクストの舞台に乗せられており、彼女は物語の語り手であると同時に彼女の語る物語の主人公であり、テクストの舞台でこれを上演する演者であり、彼女の物語るすべてが収束する表象の消失点でもある。

作品の核心部には常に謎があり、端的に言うならば、女主人公の存在そのものが謎であり、また謎の仕掛けであり、彼女の物語行為は、彼女の真率な自己表明であるにもかかわらず、謎の種明かしでもあるのである。作品はこの謎を追いかけるようなかたちで展開し、いくつかの契機を経てその謎の正体が明らかにされるやいなや、夢とも現ともつかないある夢幻的な空間(ファントームの空間)が目の前に開かれるのである。

ただし、その謎はミステリー小説に見られるようなトリックや仕組まれた謎ではなく、あるいはヒッチコックの言う内実を欠いたマクガフィンでもなく、もう少し哲学的な問いかけ、すなわちテクストの舞台で「わたし」を語っているこの「わたし」は誰かという謎である。千慶烏子の作品が「わが国の自由詩の作品史にかつて現れたことがない」と指摘されるほど異質であるのは、この「わたし」の流動性にあると言っても過言ではないだろう。千慶烏子の「わたし」は作者のもとに固定されておらず、作者と話者の間を、また作者自身の固有性と何らかの代弁者という性格の間を、あるいは剰余と欠落の間を、または彼岸と此岸の間を、あるいは実体と虚像の間を流動するのである。この流動する「わたし」に根差した方法論に千慶烏子のオリジナリティと決定的な新しさがある。

「あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの美貌におのおのの名前を呼び合うのです。あなたは妹の黒い喪章をつけ、わたしはお兄さまの黒い腕章を結んで、おたがいの美貌にやさしい指尖をさまよわせあうのです。そうしてあなたは、お美しいあなたの美貌とうりふたつの妹の美貌にあなたの名前をお呼びになって、わたしはわたしで、わたしのお顔とうりふたつのお兄さまの美貌にわたしの名前をお呼びして、そうしてくすくすわらってひとつの吐息に縺れ合ったり、吸う息のあいまあいまに吐く息を取り違えたりもしながら、ひどくつつましやかにおたがいの名前を交換するのです。」(千慶烏子『やや あって ひばりのうた』1998年 沖積舎刊)

このお互いの欲望を代弁し合う「わたし」の流動性、あるいはおのおのの名前を交換し合う「わたし」の流動性が、千慶烏子の一連の「代理=表象=上演」をめぐる方法論の根底にあり、本書を含むシリーズ作品でよりアグレッシブに展開されていると考えてもいいだろう。本書『クレール』においても、われわれの心の奥深くに潜んでいる何ものかが、あたかも名前を交換したわれわれ自身の鏡像であるかのように「わたし」を語り、神話的形象をまとってテクストの舞台に登場することになる。それは次のように言っても間違いではない。すなわち、それはテクストの舞台で「わたし」という仮面を付けて演じられている仮面の演劇である一方、またわれわれ自身が鏡を前に演じているような鏡像の演劇でもあるのだと。ここに千慶烏子のくらくらするような「代理=表象=上演」の空間が立ち上がる。そして、本書『クレール』では、この代理と表象をめぐる演劇的空間は、暗喩ではなく、文字通りの演劇的空間として出現することになる。

印象的なフランスの田舎の光景とともに描かれる女主人公クレールは、アキテーヌの葡萄園の娘であったはずだが、物語が進むにつれて、いつしか彼女は日本の神話・伝承を代表する女性像(!?)と鏡像的に重なり合ってゆく。あたかもその名前を交換したかのように、クレールは、東西の文化のへだたりを越えて、東洋の神話的人物へと変貌を遂げるのである。誤解を恐れずに言うならば、それはまさしく「変身」であり、しかも厳密な意味での「変身(メタモルフォシス)」なのである。二十世紀初頭のフランスの光景は、鏡に映った東洋の神話的光景と二重写しに描かれ、そこに本書のテーマである「転移」が発生する。まさに「わたし」が流動するのである。

おそらく本書はこの一点にのみ賭けられていると言っていいのかもしれないが、千慶の筆致は実に丹念であり、何重にも襞を重ねてテクストを織り上げ、緻密に光景を織り込んでゆく。その一方で、女主人公クレールは、作者の織り上げるテクストの襞を一枚また一枚と脱ぎ捨て、最後に驚くべき変貌した姿を現すのである。このときわれわれは、スポットライトを浴びて、舞台の上で輝いている女主人公の姿を見るであろう。文字通りの演劇的空間が立ち上がっているのである。

照明を受けて舞台の上で輝く女主人公の体現している原理が、上の惹句にある「神の女性的な部分、狂気のもうひとつの側面、全体的で命令的な連続する快感」という女性原理なのであるが、これはもう変貌したクレールの姿を通してご覧いただくのが一番であろう。つまり、それは名前を交換したクレールが被っている仮面をご覧いただくということである。そして、実に驚くべきことに、その仮面には名前があるのである。最後に、本書『クレール』には、これら三編の小文を書くにあたって大いに参考にした著者自身による詳細な「批評・解説」が収録されている。文芸批評や表象文化論に興味のある方は、ぜひ併せてご覧いただきたいと思う。(P.P.Content Corp. 編集部)


千慶烏子『クレール』電子書籍版解説  2017年11月

CLAIRE 2006

千慶烏子著 ISBN: 4-908810-24-9, 978-4-908810-24-4

悲しみがわたしをキャラメリゼする。まるで鼈甲の飴のように思い出が肌に焦げついてわたしを悲しみでおおってゆく──。

CLAIREとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような明るい美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。詩人センクェイが舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。――実に愛の妄執とは、ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。

おうおうと泣くなよ、アンジンよ。おまえの眼差しに光る恐怖がわたしの愛を残酷にするよ。怯えるおまえの美貌がわたしの愛を獰猛にするよ。またあの日のように美しいセロを奏でて、わたしの愛の不穏な感情を宥めてください。この髪を逆立てる酷薄な愛のときめきをあなたの甘美な抒情で眠らせてください――。急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。カラス・センクェイ・ファム第三弾『クレール』。2006年10月待望の刊行。

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叢書『FEMMES』 第三巻『CLAIRE』は、第一部・第二部の二部構成、四十余編の断章からなる八十余頁の作品です。テクストの舞台で亡霊の女が語りをひもとく、千慶烏子独自の「アロスの話法」に基づいて詩篇は構成され、作品はこの特異な話法の持つ文学史上のモチーフを参照しながら、より劇的に、よりドラマチックに展開します。千慶烏子の陶然とするような官能性の高いテクストが、わたしを語っているこの「わたし」は誰かという導線に沿って、夢とも現実ともつかない幻想的な構成で織りなされ、テクストの目眩めく快楽が甘美にして残酷なこの言語空間を傲然と立ち上がらせます。まさに『FEMMES』シリーズの白眉とも言うべき壮麗な作品です。

作品本編に加え、本書『CLAIRE』には豊富なインターテクストが収録されています。詩篇のひとつひとつに作者のコメンタリーが併記されるコメンタリー・モード、刊行に先立って「センクェイコム・プレスリリース」誌上に連載された『dans la Chambre Obscure』など、精緻でスリリングな思考が本書『CLAIRE』をグラマラスに彩ります。メタテクストとインターテクスチュアリテ――襞のなかに襞をたたみ、折り目のなかに折り目をつけるテクストの精緻な襞が、そうでなくとも陰影の深い四十余篇の作品により一層深い陰影を投げかけます。

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CALLAS CENQUEI の『FEMMES #3 CLAIRE』は2006年10月7日に刊行を予定しています。 予価 CD版2600円 DL版2100円 (価格はすべて税込価格、CD版は別途送料申し受けます。)

本書を含む 叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』の予約購読をお申し込みの方には 『#1 ADELE』から『#5 JEANNE』までの五冊と『SERIE FEMMES』をあわせて 全六冊お届けいたします。なお、表題・内容・配本の順序は、予告なく変更になる場合があります。あらかじめご了承ください。特別価格CD版揃価12,000円 DL版9,800円(ともに消費税・送料込み)。


千慶烏子『クレール』初版CD版購読案内  P.P.Content Corp.編集部  2006年10月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

FEMMES 2003

千慶烏子著 Callas Cenquei Femmes Catalogue

CALLAS CENQUEI FEMMES ──女たち。

われわれ編集者に手渡された詩人の覚書には、JEANNE、ADELE、CLAIRE、DELTA、BERNADETTEとあたかもモードの最前線で美しいポーズを取る女たちのように、あるいはいかがわしいポルノグラフィに登場するどこか不吉な女たちのように、あるいはまた、無縁の墓標に刻まれた決して明かされることのない歴史と記憶の伝令者のように、ファミリー・ネームを持たない女たちの「名」だけが記されています。

これらの女たちは、詩人の地獄巡りの旅からは連れ帰ることができず、しかしながら彼のテクストのなかにはありありとその美貌をあらわす断片と化した詩人の妻なのか、それとも彼の美貌とうりふたつの美貌のもとでおたがいの性と名前を交換し合う詩人の双子の妹たちなのか、あるいは彼の厳格な掟のもとで常に不可能なものへのやるせない欲望を訴えてやまない背徳的なまでに美しい詩人の娘たちなのだろうか。──他者の欲望に合わせて作られた名前の一定しない増殖。危機の奈落から浮上してくる倒錯的な天使。「アレゴリーの勝利」の最も貴重な獲物。死を意味する生。カラス・センクェイ・ファム──女たち。


『CALLAS CENQUEI FEMMES』は2003年夏より五冊にわたって刊行されます。現在ご購読をお申し込みの方には『#1 ADELE』から『#5 JEANNE』までの五冊と『FEMMES (SERIE)』をあわせて全六冊お届けいたします。価格 CD版揃価 12,000円 ESD版揃価 9,800円(ともに消費税・送料込み)。

各書の販売はそれぞれの書籍の刊行と同時に開始されます。一部 2,100円~3,150円(予価 税込価格。送料は別途申し受けます。)


叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』カタログ  P.P.Content Corp.編集部  2003年07月

FEMMES 2003

千慶烏子著 Callas Cenquei Femmes Catalogue

小説の解体という二十世紀の文学の冒険のなかで登場してきた「テクスト」という概念は、われわれの世紀のメディア・テクノロジーの進化のなかで、新しい文学形式の創造と書物の解体およびその再創造に取り組もうとしている。われわれは二十世紀の文学の冒険を引き継ぐこの二十一世紀の文学の冒険をテクスト・コンプレクスと名付けようと思う。それは、形式的に規定するならば、画面という数値的な表象空間におけるテクストを中心とした映像と音響のマルチ・メディア的複合体と規定することができるだろう。だが、それはある芸術形式に対して与えられる名ではない。むしろ、文学の「冒険」に対して贈られる名なのである。

テクスト・コンプレクスがわれわれに先立つさまざまなマルチ・メディア・プロダクツと決定的に異なるのは、なによりもまず、それがわれわれの新しいメディア・システムにおける「文学」の冒険であることである。われわれは好んでみずからとは異なる表現形式・表象芸術を取り入れてゆくであろうが、それは、文学が、文学の問題として、しかも共通の空間で、他者と対話することを望んでいるからである。われわれは、言語にとっての特権的な圏域の埒外に出ようと思う。その上で他者と対話しようと思う。それはわれわれにとって極めて無防備で危険な状態を要求することになるだろう。おそらくわれわれは裸にされるだろう。われわれはグーテンベルグの発明以降培ってきたわれわれの自負を粉々に打ち砕かれるだろう。だが、この危険で無防備な状態における対話こそ、われわれが望むところのものであり、それは、みずからの領域に他者を招いて行う対話よりも、より多くの実りをもたらしてくれるにちがいない。われわれはみずからの領分に他者を招くのではない。みずから出向いてゆくのである。それはまさに文字どおり冒険なのである。そしてこの「文学の冒険」のなかで行われる越境と横断の過程そのものを、またそこで行われる対話そのものを、あるいは失敗に終わり、無惨な結果を残すのみとなった試みそのものを、われわれは文学の問題として取り扱い、思考し、そしてその財宝と収穫を持ち帰りたいと思うのである。

テクスト・コンプレクスは、新しく発見された航路のように、異なる言語と異なる貨幣価値を持つ芸術形式の集合的な交易を促進することに貢献するだろう。このことに対するわれわれの興味は尽きない。しかしながら、最も重要なことは、文学の新しい展開と提案であり、ひいてはすでに完成したメディアである書物とすでに成熟したメディア・システムであるパブリケーションの解体およびその再創造にある。

われわれの世紀の数値的空間において、あるいはマルチ・メディア的空間において、今後さまざまな文学の試みが行われ、またさまざまな試みが忘れ去られてゆくだろう。この忘却は冒険である限りにおいては宿命的に引き受けざるを得ないところのものである。しかしながら、われわれは陸続と続くであろうこれらの試みに対して、またたちどころに忘れ去られてゆくであろうこれらの試みに対して、ひとしくテクスト・コンプレクス(テクスト複合体)の名を贈ろうと思う。それは、命名においてこれらの冒険を存在たらしめる記銘の行為であり、ひいてはこれらの冒険に記録と歴史的展開を呼びかける零度の行為である。

われわれが今いる場所は、丘を背にして西に展けるリスボンの港である。テクスト・コンプレクスは、新しく発見された航路であり、新しく発見された大陸であり、またその地で行われる血液の混淆であり、そしてそこから持ち帰られる珍しい種類の品々であり、不可能なものを求めて海を渡る人びとの果てしなき営為であり、無駄に終わったいくつもの航海であり、にもかかわらず未来において発掘されるであろう冒険の数々であり、そしてそれらのことごとくを称えて大西洋を指差す航海者たちの壮麗なモニュメントなのである。(千慶烏子 2003/07/23)


叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』緒言「テクスト・コンプレクスについて / 新しい書物と文学の未来のために」 2003年07月

BOOKS

千慶烏子『クレール』

クレール

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-06-0, 978-4-908810-08-4

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて…(本文より)

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千慶烏子『デルタ』

デルタ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-26-8, 978-4-908810-04-6

この海に終わりがあることをわたしは知っている。でも言わない。あの空に限りがあることをわたしは知っている。でも言わない。夕映えにかすむ希薄な空を染めて遠く沖合いに沈もうとするわたしたちヘスペリアの太陽は、本当は太陽ではなく、太陽の廃墟だということをわたしは知っている。でも言わない。言わないのは禁じられているからではなくて、誰もわたしに聞こうとしないから。訊いてくれたら話してあげるかもしれないけれども、誰もわたしに聞こうとしないから。永い永い航海の果て、弔いの歌もなく死んでいった男たちのことをわたしは言わない。もはや忘れられて久しい故郷の歌と残された子供たちの旅路の行方をわたしは言わない…(本文より)

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千慶烏子『TADAÇA』

TADAÇA

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

あなたはその女(ひと)の胸を吸う。その女の胸のあわいなでしこの蕊をあなたは吸う。その女の腋のすこしばかり湿った暗さをあなたは吸う。愛しい女の肌もあらわなその場所に触れつつ暮れる夏の日のあまいかげりをあなたは吸う。ときどき吹きみだれるその女の髪があなたのほほをかすめることもなく、ときどき耳朶にぬれるその女の髪があなたの指をこばむこともなく、ひだりにむけ、そびらをかえし、あなたのそこに、その口もとに、またその耳もとに、その女の息を散らすあなたがたの夏の臥床にあなたは吸う。みずみずしくひもとかれたその女の肌のしずかなうるおいがあなたのうなじにめぐらされ、もうとうにはだかであることにも飽いたその女の脚が…(本文より)

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