DELTA

デルタ 2017

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-26-8, 978-4-908810-04-6

ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓をふるわせる──。

デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。 人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか──。予断を許さない大胆な構成のもとで繊細かつ多感に繰り広げられる千慶烏子の傑作『デルタの恋』。

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本書は『Delta』の表題で叢書『Callas Cenquei Femmes』の第二巻として2005年P.P.Content Corp.から出版された。千慶烏子のシリーズ作品『Femmes』の概要に関しては、『アデル』購読案内で紹介しているので、ご覧いただきたい。

本書『デルタ』は、シリーズの他の作品と共通の方法論が採用されており、女主人公のデルタが一人称で語る九十余篇のテクストから構成されている。作品は、デルタが「わたし」を語る一人称の話法で構成され、一人称の視点で展開されてゆく。千慶烏子のこの極めて独特な一人称の話法に関しては、いずれ稿を改めたいと思う。さて、デルタのひもとく「語り=話法=物語(ナラティブ)」を構成的側面から考えるならば、本作は、序盤・中盤・終盤の三つに分けて考えることができるだろう。この購読案内では、構成的側面から本書『デルタ』の魅力をご案内してみたいと思う。

本書の中核にあってこの作品空間を支えているのは、一言で言い表すならば、謎であり、謎めいた仕掛けであり、謎の種明かしである。わかりやすい例を挙げると、映画『シックス・センス』において、ブルース・ウィリスに与えられた役割と非常によく似ていると言っていいかもしれない。主人公の存在そのものが謎であり、また謎の仕掛けであり、そして謎の種明かしなのである。テクストは美貌の女主人公デルタの謎を追いかけるようなかたちで進行し、やがて驚くような種明かしを経て中盤へと向かう。千慶烏子はこの種明かしにいたるまで、全体の約三分の一の分量を費やして策を練っている。

物語の主人公であり、かつ物語の語り手であるデルタという謎めいた女の正体が明らかにされるやいなや、彼女の語る物語は反転し、その空間は一転して起伏に富んだものになる。特に中盤以降は、映画のカットバックを思わせる断章の構成が非常に有効に活用されており、序盤で丹念な布石を打って展開されたヘスペリアという舞台装置そのものが顛倒し、反転画像のように描かれるさまは、着想の天才と言われる千慶烏子の想像力が如何なく発揮されている。ここはもう難しいことを言わず、ただ唖然としてそのイマジネーションを堪能するのが良い。

そして、本書で最も重要な終盤に差し掛かる。一人称で「わたし」を語るデルタの正体、彼女の語るヘスペリアの正体が明らかにされた後で、デルタは「語り手に知らされていない本源的な謎」にぶつかることになる。この謎の中の謎、謎の中にあって謎そのものを否定する謎に本書のすべてが集約されている。この構成が秀逸であり、そして卓抜である。全てを知っているはずの語り手が「わたし」の中に「わたしの知らないわたし」を発見し、彼女を否定する彼女自身に遭遇するのである。同時に、彼女の謎の中に隠されていた本当の謎が「語り手であるわたし」を蝕んでゆくことになる。この過程を実に丹念に、そして情感豊かに千慶烏子は描いており、デルタの語る一人称の話法は、愛の苦悩と実らない運命をめぐる魂の告白となって、読む人の心に迫るにちがいない。謎と奇想に富んだバロック的悲劇は、驚くようなカタルシスをもって、その幕を閉じるのである。

バロック的悲劇──本書を一言で言い表すならば、その言葉に尽きるだろう。物語の要求する一回性の規範を逸脱して回帰するバロック的空間が物語にもたらした悲劇なのである。ぜひ読者の皆さんは、着想の天才と称される千慶烏子の謎に満ち、奇想に富んだバロック的空間を楽しんでいただきたい。(P.P.Content Corp. 編集部)

追記
優れた芸術作品は時代を写し出す鏡のようなものだと言う。千慶烏子の『デルタ』もその例にもれない。そこには、作者が意図したか否かにかかわらず、彼の時代が写し出されている。詩人の風変わりな着想やイメージ豊かな表現のあいまあいまに、ふと彼の時代が映り込むのである。千慶烏子の時代、つまりそれはわれわれの時代なのだが、一言で言うならばそれは「失速と停滞の時代」である。90年代の後半からわが国の経済は失速し、未来への展望を失って文化的状況は停滞し、一世代もの歳月を費やしてじりじりと衰亡の危機へと後退してゆく時代である。人びとは希望を失い、絶望的であるにもかかわらず冷笑的であり、ニヒリズムと不寛容と懐古主義が蔓延している。何もかもが見かけだおしであり、きれいごとであり、内実を欠いており、空疎であり、欺瞞に満ちている。合理性の上っ面の下で非合理なことがまかり通り、正直者ほど不公平で無責任な社会の不条理に泣かされる。こういう出口なしの時代性が、奇想に富んだ詩人の作品に図らずも映り込んでいるのである。読者の皆さんは、この失速と停滞の時代、つまりわれわれの時代の表現として本書『デルタ』をご覧いただいてもいいのではないだろうか。蛇足かもしれないが、追記しておきたい。

千慶烏子『デルタ』電子書籍版解説  2017年10月

DELTA 2005

千慶烏子著 ISBN: 4-908810-20-6, 978-4-908810-20-6

ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓を慄わせる──。

デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか。

名前は。デルタ。四番目の女だから。残念だね、ギルダではないんだね。残念ね、ブエノスアイレスで歌を歌っていた覚えはないわ。埃っぽい北アフリカの植民都市で外人部隊の相手をしていたこともないわ──。予断を許さない斬新な構成のもとで大胆かつ繊細に繰り広げられるカラス・センクェイ・ファム第二弾『デルタの恋』──2005年11月待望の刊行。

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本書を含む叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』の予約購読をお申し込みの方には『#1 ADELE』から『#5 JEANNE』までの五冊と『SERIE FEMMES』をあわせて全六冊お届けいたします。なお、表題・内容・配本の順序は、予告なく変更になる場合があります。あらかじめご了承ください。価格CD版揃価12,000円 ESD版9,800円(ともに消費税・送料込み)。


千慶烏子『DELTA』初版CD版購読案内  P.P.Content Corp.編集部  2005年11月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

FEMMES 2003

千慶烏子著 Callas Cenquei Femmes Catalogue

CALLAS CENQUEI FEMMES ──女たち。

われわれ編集者に手渡された詩人の覚書には、JEANNE、ADELE、CLAIRE、DELTA、BERNADETTEとあたかもモードの最前線で美しいポーズを取る女たちのように、あるいはいかがわしいポルノグラフィに登場するどこか不吉な女たちのように、あるいはまた、無縁の墓標に刻まれた決して明かされることのない歴史と記憶の伝令者のように、ファミリー・ネームを持たない女たちの「名」だけが記されています。

これらの女たちは、詩人の地獄巡りの旅からは連れ帰ることができず、しかしながら彼のテクストのなかにはありありとその美貌をあらわす断片と化した詩人の妻なのか、それとも彼の美貌とうりふたつの美貌のもとでおたがいの性と名前を交換し合う詩人の双子の妹たちなのか、あるいは彼の厳格な掟のもとで常に不可能なものへのやるせない欲望を訴えてやまない背徳的なまでに美しい詩人の娘たちなのだろうか。──他者の欲望に合わせて作られた名前の一定しない増殖。危機の奈落から浮上してくる倒錯的な天使。「アレゴリーの勝利」の最も貴重な獲物。死を意味する生。カラス・センクェイ・ファム──女たち。


『CALLAS CENQUEI FEMMES』は2003年夏より五冊にわたって刊行されます。現在ご購読をお申し込みの方には『#1 ADELE』から『#5 JEANNE』までの五冊と『FEMMES (SERIE)』をあわせて全六冊お届けいたします。価格 CD版揃価 12,000円 ESD版揃価 9,800円(ともに消費税・送料込み)。

各書の販売はそれぞれの書籍の刊行と同時に開始されます。一部 2,100円~3,150円(予価 税込価格。送料は別途申し受けます。)


叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』カタログ  P.P.Content Corp.編集部  2003年07月

FEMMES 2003

千慶烏子著 Callas Cenquei Femmes Catalogue

小説の解体という二十世紀の文学の冒険のなかで登場してきた「テクスト」という概念は、われわれの世紀のメディア・テクノロジーの進化のなかで、新しい文学形式の創造と書物の解体およびその再創造に取り組もうとしている。われわれは二十世紀の文学の冒険を引き継ぐこの二十一世紀の文学の冒険をテクスト・コンプレクスと名付けようと思う。それは、形式的に規定するならば、画面という数値的な表象空間におけるテクストを中心とした映像と音響のマルチ・メディア的複合体と規定することができるだろう。だが、それはある芸術形式に対して与えられる名ではない。むしろ、文学の「冒険」に対して贈られる名なのである。

テクスト・コンプレクスがわれわれに先立つさまざまなマルチ・メディア・プロダクツと決定的に異なるのは、なによりもまず、それがわれわれの新しいメディア・システムにおける「文学」の冒険であることである。われわれは好んでみずからとは異なる表現形式・表象芸術を取り入れてゆくであろうが、それは、文学が、文学の問題として、しかも共通の空間で、他者と対話することを望んでいるからである。われわれは、言語にとっての特権的な圏域の埒外に出ようと思う。その上で他者と対話しようと思う。それはわれわれにとって極めて無防備で危険な状態を要求することになるだろう。おそらくわれわれは裸にされるだろう。われわれはグーテンベルグの発明以降培ってきたわれわれの自負を粉々に打ち砕かれるだろう。だが、この危険で無防備な状態における対話こそ、われわれが望むところのものであり、それは、みずからの領域に他者を招いて行う対話よりも、より多くの実りをもたらしてくれるにちがいない。われわれはみずからの領分に他者を招くのではない。みずから出向いてゆくのである。それはまさに文字どおり冒険なのである。そしてこの「文学の冒険」のなかで行われる越境と横断の過程そのものを、またそこで行われる対話そのものを、あるいは失敗に終わり、無惨な結果を残すのみとなった試みそのものを、われわれは文学の問題として取り扱い、思考し、そしてその財宝と収穫を持ち帰りたいと思うのである。

テクスト・コンプレクスは、新しく発見された航路のように、異なる言語と異なる貨幣価値を持つ芸術形式の集合的な交易を促進することに貢献するだろう。このことに対するわれわれの興味は尽きない。しかしながら、最も重要なことは、文学の新しい展開と提案であり、ひいてはすでに完成したメディアである書物とすでに成熟したメディア・システムであるパブリケーションの解体およびその再創造にある。

われわれの世紀の数値的空間において、あるいはマルチ・メディア的空間において、今後さまざまな文学の試みが行われ、またさまざまな試みが忘れ去られてゆくだろう。この忘却は冒険である限りにおいては宿命的に引き受けざるを得ないところのものである。しかしながら、われわれは陸続と続くであろうこれらの試みに対して、またたちどころに忘れ去られてゆくであろうこれらの試みに対して、ひとしくテクスト・コンプレクス(テクスト複合体)の名を贈ろうと思う。それは、命名においてこれらの冒険を存在たらしめる記銘の行為であり、ひいてはこれらの冒険に記録と歴史的展開を呼びかける零度の行為である。

われわれが今いる場所は、丘を背にして西に展けるリスボンの港である。テクスト・コンプレクスは、新しく発見された航路であり、新しく発見された大陸であり、またその地で行われる血液の混淆であり、そしてそこから持ち帰られる珍しい種類の品々であり、不可能なものを求めて海を渡る人びとの果てしなき営為であり、無駄に終わったいくつもの航海であり、にもかかわらず未来において発掘されるであろう冒険の数々であり、そしてそれらのことごとくを称えて大西洋を指差す航海者たちの壮麗なモニュメントなのである。(千慶烏子 2003/07/23)


叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』緒言「テクスト・コンプレクスについて / 新しい書物と文学の未来のために」 2003年07月

BOOKS

千慶烏子『デルタ』

デルタ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-26-8, 978-4-908810-04-6

この海に終わりがあることをわたしは知っている。でも言わない。あの空に限りがあることをわたしは知っている。でも言わない。夕映えにかすむ希薄な空を染めて遠く沖合いに沈もうとするわたしたちヘスペリアの太陽は、本当は太陽ではなく、太陽の廃墟だということをわたしは知っている。でも言わない。言わないのは禁じられているからではなくて、誰もわたしに聞こうとしないから。訊いてくれたら話してあげるかもしれないけれども、誰もわたしに聞こうとしないから。永い永い航海の果て、弔いの歌もなく死んでいった男たちのことをわたしは言わない。もはや忘れられて久しい故郷の歌と残された子供たちの旅路の行方をわたしは言わない…(本文より)

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千慶烏子『クレール』

クレール

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-06-0, 978-4-908810-08-4

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて…(本文より)

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千慶烏子『ポエデコ』

ポエデコ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-05-3, 978-4-908810-27-5

自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら、乾いた唇に唇を重ね、早熟な愛の感情におたがいの肌を寄り添わせるのだった。峠を越えると右手に湖を望んで下り坂を走った。コテージでは最初はどこかためらいがちだったけど、抱き合う以外に愛を伝える方法を…(本文より)

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