天使との格闘──。
本書は千慶烏子の二番目の書物である。230ページ余り、彼の本分とする長編作品である。まずは本書の出版に至る経緯について整理しておきたい。本書の最終稿は、彼の処女作『ねじふりこ』が出版された1996年の終わりにはすでに完成を見ていたという。しかし、本書を出版するに当たって、まずは書籍に先行するような形で、雑誌を刊行しようということになった。収録予定のテクストは編集され、モンタージュされ、これまでの詩誌にはなかった視覚表現が大胆に取り入れられ、雑誌は極めて美的に洗練されたものに仕上がった。それが1997年6月から1998年4月まで、全六巻に渡って出版された『vernissage』である。フランス語の「vernissage(ヴェルニサージュ)」には「展覧会前夜のエキジビション」という意味があり、これらの雑誌は書籍の出版に先立つショーリール的な予告編であるという作者の意図がその誌名から窺える。われわれP.P.Content Corp.はこのとき初めて千慶烏子の作品の編集に携わり、発行人としてその名を記すことになる。そして『vernissage』が完結した1998年の5月に本書は出版される。千慶烏子の『やや あって ひばりのうた』は、詩的表現の新しい可能性に飢えていた若い詩人たちや、野心的な新しい才能の登場を待望していた詩壇の重鎮たちから驚きと熱狂を持って迎えられ、現代詩が戦後詩の軛を離れて初めて新しいフェーズに突入した作品として非常に高い評価を得るに至った。本書はこの1998年の初版を底本としたデジタル版である。
作品はいくつかの方向軸を持った断章から構成されている。断章は見開き一面で視覚的に構成されており、それぞれの断章には異なるレイアウトが用意され、ページをめくる度に複数の軸線を持つ断章が、あたかもカットバックで展開される映画のように、複雑に絡まりながら作品を展開してゆく。その内容やディテールに関しては、実際に本書をご覧いただくとして、この購読案内では、書物を縦に貫いているアウトラインについて、本書の副題に付されている「天使との格闘(la lutte avec l'ange)」という語句、また献辞のように掲げられている「複数の声のために」という言葉から考えてみたい。
「あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの胸乳をおのおのの口に吸い合うのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をしめて、おのおのの口に青い鱒をつりあげるのです。水しぶきをあげて勃起している青い魚をおたがいの口にさがしあてては、それをおのおのの口に吸い合うのです。そうしてあなたはわたしの野良猫のようにまるいおなかに、そうしてわたしはお兄さまの牝猫のようにきれいなおしりに、杜撰な虚言を突き立てあってはおたがいの青い鱒をおのおのの口に吸い合うのです。」(本書より)
あなたという呼びかけのもとで語りかけてくる声、あるいはまた、奇妙な名前で呼びかけながら「名前を呼ばれたら返事をしなさい」と執拗に呼び止めてくる声、あるいは想起の話法で愛の記憶を紡ぎながら「あなた」と語りかける声、本書はこれら呼びかける複数の声と呼び止められる者(それはつまり作者のことだ)とのあいだでドラマチックに展開する。本書における基本の人称は二人称であり、「あなた」と二人称で呼びかけられ、呼び止められるところに作者は位置している。改めて言うまでもないことだが、わが国の自由詩の歴史において、二人称で書き記された書物はいまだかつて存在しない。あるとするならば、それは本書以降のことである。実のところ、本書は史上初の初ものづくしであり、読者は随所にオリジナルなものの豊かさを見いだすことができるにちがいない。さて、話を戻して、この「あなた」と「わたし」の関係について考えてみよう。それは独立した二者の対等な関係とは言いがたく、引用文に見られるように、「杜撰な虚言を突き立てあって、おのおのの口に吸い合う」ような共犯的で鏡像的で代理的な関係である。何かとても本質的で重要なものを、この「あなた」と「わたし」は共有し、代弁し、互いに交換し合っているのである。この「あなた」と「わたし」の代理と交換というテーマが無限旋律のように響き渡り、本書に陰影に富んだ豊かなディテールを創り出している。詩編は実に甘美であり、美しい。
しかしながら、この「あなた」と「わたし」は密室で鏡像的な愛を交換し合う満ち足りた関係に終始しているわけではない。むしろ、ヘーゲルの『精神現象学』における「主人と奴隷の弁証法」のように、烈しく争いながらせめぎ合い、格闘し、おたがいを奪い合う闘争的な関係にあると言ってよい。強迫的に反復される不気味なレイアウトの断章が、本書がただ甘美なだけの書物ではないことを読者に訴えかけている。それでは、この「あなた」と「わたし」は何をめぐって争っているのか。詩人に「あなた」と呼びかけるものと呼び止められる詩人は何をめぐって争っているのか。おそらく、それは「わたし」をめぐって争っているのだと言っていいのではないだろうか。「あなた」と呼び止められることではなく、みずから「わたし」と名乗ることをめぐって、書くことのはじまりにおいて「わたし」と書き記す権利をめぐって、書物を著すその創造の過程において「わたし」を名乗る権利について争っているのである。それは詩的表現のはじまりに横たわっている原初的な闘争の光景なのかもしれない。書くことを呼びかけるものと呼び止められて詩を書く詩人とのあいだの闘争である。この闘争の過程を、千慶烏子は旧約聖書『創世紀』第三二章の「天使との格闘」と通称される挿話を引きながら作品を構成している。本書の副題に添えられている「天使との格闘」とは、芸術的創造の明け方に横たわっている神話的光景を指しているのかもしれない。もちろん、読み取りと解釈は読者の皆さんの手に委ねられている。ただ、この「わたし」をめぐる天使との格闘が帰結するところは、ぜひ本書でご覧いただきたい。驚くほど素晴らしい締めくくり方をしている。
おそらく千慶にとって最も重要な形式は書物という形式なのだろう。雑多な詩編の寄せ集めではなく、始まりがあって終わりのある書物、一冊の中で自らを展開してゆく書物、そして複数の書物に渡って書き手の成長と時代を記しづけてゆく「書物」という形式が最重要の形式なのだろう。本書の後で千慶は、まさに時代の挑戦を受けて立つような形で、デジタルと文学というテーマを掲げ、より一層「書物」をめぐる思考を深めてゆく。そして、全く孤立無援の状況で、現代詩とは次元を画する作品群を続々と発表し、ポスト現代詩とも言うべき詩的表現の新機軸を切り拓いてゆくことになる。その代表的な作品はご覧のブックストアはもとより、国立国会図書館にもPDF版がデジタル収蔵されているのでご覧いただきたい。それら一連の書物のきっかけになるのが本書である。おそらく千慶は、書くことをめぐる天使との格闘において、書物を生み出す力能、芸術的創造の黎明に横たわっている根源的な力を手に入れたのではないだろうか。
本書における千慶烏子の特徴を一言で表すならば、若々しく、怖れげもなく、野心的である。若い詩人が力を溜め、跳躍し、自分の力以上のものに挑みかかってこれを天賦の才能に物を言わせて捩じ伏せようとしているさまを想像していただいていいだろう。そのさまはまさに「天使との格闘」の挿話において語られるところのものであり、天使と格闘する詩人の姿そのものである。咆哮を上げて猛々しく立ち上がるその相貌はもちろん、怖れげもなく隙を見せて飛びかかるその柔らかく無防備な腹もまた若々しく美しい。千慶烏子は、天使と闘う詩人だと記憶されていいだろう。いや、天使に呼び止められ、天使と格闘するに足る力量と才能を備えた者のみが詩人と呼ばれてしかるべきなのだ。ここで千慶烏子は現代詩をはるかに凌駕する。
千慶烏子の『やや あって ひばりのうた』はわが国の自由詩の歴史における特異点であり続けるだろう。その大胆不敵な構成と展開、その視覚的表現、その圧倒的な筆力、その甘美なテクスト、その野蛮な抒情を存分に楽しんでいただきたい。(P.P.Content Corp. 編集部)
男は鳥の滑空についてわたしに語りはじめるだろう。防波堤と時のゆるやかな腐食について男はわたしに語り聞かせるだろう。男の胸にゆだねられたきささげの白さを、男の胸にかさねられたわたしの胸の透けるような白さを、それとも男は愛したのだろうか。それとも騎乗する肉体のたけだけしさを男は愛したのだったろうか。ときおりその口唇にあたえられ、あたえられてはのがれてゆく乳房のはずみ、ときおりその口唇をあかるませるわたしの胸のあわい暈、その乳暈にくれそめた午後の日のおだやかな翳りを男はいっそう愛したのだろうか。肩からおちる髪と海のにおいをそれとも男は愛したのだったろうか…(本文より)
海辺にひびく鳥の声を美しいと思った。頬を撫でて行き過ぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。もう二度とパリに戻ることはないかもしれないというわたしたち家族の深い絶望の色で、瞳に映るものすべては暗く沈んでおり、また、夜ともなればいつも父を苦しめる亡姉レオポルディーヌの痛ましい記憶にわたしたち家族の思い出は逃れようもなく囚われており、わたしたちは、パリを遠く離れた小さな島の小さな街で息をひそめるように深い喪のただなかにいた。しかし、海辺にひびく海鳥の声を美しいとわたしは思った。頬を撫でて行きすぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。この肌にふれる海のひびきが…(本文より)
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて…(本文より)