思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて、美しく化粧をしたブランコ乗りの娘が目の前をあわただしく行き過ぎるたび、わたしはあの男の長い髪を思った。ナイフ投げの男が観客の鼓動を高鳴らせ、松明を手にした男たちが高々と火を吹いて夕空に火柱をあげるたび、わたしはあの男の焼けた肌を思った。そして、不思議なセロを手にしたあの男が、金色の髪をなびかせて雄叫びをあげる獰猛な獣に歩み寄り、鞭をふるうでもなく、怒声をあげるでもなく、誰もまだ聞いたことがないような抒情的な音楽を奏でて、この猛り狂う百獣の王を眠らせたとき、なぜかしらわたしは、永い眠りから覚めたのだと思った。
無口な少女だった。暗い箱のなかでわたしは思うだろう。無口な娘だったと。葡萄の香るアキテーヌの屋敷でわたしは生まれた。樽に仕込んだ葡萄の果実が人知れず醗酵してゆくように、わたしはお父さまの甘い箱のなかで醗酵して育った。ヨーロッパを荒廃させる機銃の音も聞かず、大砲の音も知らず、領地の外に広がるであろう海の向こうばかりを夢みて育った。パリから来た女たちは、長い髪を切って、新しい世紀の速度と未来を楽しんでいるというのに、わたしは腰まで届く金色の髪を側仕えに梳かせて、まるでダンテ・ガブリエル・ロセッティの描く女たちのように、鬱蒼とした緑の蔭に隠れて一日を過ごした。領地の男たちはソンムの村で来る日も来る日も水浸しの塹壕を掘っているというのに、わたしは、彼らの美しい故郷で、窓を開ければ西の果てに広がるであろう海の向こうばかりを夢みて過ごした。お兄さまが亡くなり、程なくして病床に臥したお母さまも亡くなり、食卓の光景も心なしか寂しくなったにもかかわらず、わたしは、腰まで届く髪をアンナに梳かせて、日がな一日窓の向こうを夢みて過ごした。もしかしたら、いつの日か半身が馬のような男が現れ、その野蛮な美貌でわたしをさらって、どことも知れぬ異国へと連れ去るかもしれないその日を思ってわたしは過ごした。
日が落ちると思ったものだ。この広壮な屋敷のどこかには、きっとまだ巡り会えぬ運命の人が待っていて、わたしに愛を告白する瞬間を今か今かと待ちわびているに違いないと。限りなく続く同じ部屋の繰り返しのどこかに、古めかしい家具や厳めしい馬の置物にまぎれて、身じまいの正しい美貌の人が、愛の瞬間を待ちかねて茫然とたたずんでいるにちがいないと。あまりの長きにおよぶ待機の時間のおかげで、もはやその人は彫像になってしまったかもしれない。あるいは厚塗りの絵画のなかに取り込まれてしまったかもしれない。わたしは古びた彫像を見つけるたびに愛の接吻をした。絵画のなかに人影を見出すたび、早く出ていらっしゃいと心に念じた。そして、夜が更けると、写真装置を手にした貧しい冒険家のように、わたしはこの屋敷の延々と続く部屋の繰り返しを旅して歩いた。時には追われている女の振りをして、わたしを捕まえに来る美貌の人を探してもみた。あるいは愛を顧みない冷淡な女の振りをして、まだ巡り会えぬ運命の人を誘惑したりもした。夜ごといくつもの部屋の同じ扉を開け、どれも同じ暗い部屋を探して歩いた。疲れて眠りに落ちるまでわたしは暗い部屋を旅して歩いた。思えば、あの夜もこのような日々の繰り返しのなかで見たひと時のまぼろしだったのかもしれない。
海を渡ってやって来たのだと男は言った。はるばるおまえに会うために海を越えてフランスにやって来たのだとその男は言った。夜半、寝窓を叩いて驚かせたことの非礼も詫びずに男は言った。許してもいないのに厚かましく女の寝部屋に押し入って男は言った。そのくせ、丁重に頭を垂れてアンジンだと名乗った。汚らしい中国男だった。苦力のような匂いがした。サーカスのあの男だった。早く出て行かないと人を呼びます、そう叫んだわたしの腕を取り、男は聞かれてもいないことをおもむろに話しはじめた。出窓のそばにわたしを座らせ、まるで腹違いの兄のようにそのかたわらに腰を下ろして、男は静かに語りはじめた。十三歳で故郷を捨てた少年がはじめて海を見た日のことを男は話した。水を汲みに行ったまま帰って来ない少年が、上海の場末で働きながら、マラッカ海峡を横断した日のことを男は話した。インドの大海原を越え、廃墟のようなゴアの旧市街を越え、アラビアの海で溺れそうになった日のことを男は話した。マダガスカルで聞いた噂を頼りにアフリカの南端を回り、モロッコを越え、初めてフランスに降り立った日のことを男は話した。戦乱の都市を転々とし、曲馬団に拾われてようやく生き長らえた日々を男は話した。そして、おまえに会うためにやって来たのだと男は言った…
*続きは電子書籍版『クレール』でお楽しみください。
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。
Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。
ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓をふるわせる──。
デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。 人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか──。予断を許さない大胆な構成のもとで繊細かつ多感に繰り広げられる千慶烏子の傑作長編詩篇『デルタの恋』。
人類の歴史にはじめてインターネットが登場したときに、人はどのような未来をそこに見いだし、詩人はどのような書物をそこに創造したのか──。
二十一世紀初頭、インターネット草創期に先駆的なデジタル出版で海外から高い賞賛が寄せられた千慶烏子の『TADACA』。傑作と名高い第三章「La Chambre Numerique」を含む全四章を完全収録。この不可能な挑戦、この孤立無援の行程のもとで行われたデジタルの内面化の過程を通して、デジタルははじめて人間的なものになる。──ここにあるのはデータにすぎない。しかしそれは何よりも貴重な歴史の証言であり、また書物という人類の英知の賜物なのだ。