あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの胸乳をおのおのの口に吸い合うのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をしめて、おのおのの口に青い鱒をつりあげるのです。水しぶきをあげて勃起している青い魚をおたがいの口にさがしあてては、それをおのおのの口に吸い合うのです。そうしてあなたはわたしの野良猫のようにまるいおなかに、そうしてわたしはお兄さまの牝猫のようにきれいなおしりに、杜撰な虚言を突き立てあってはおたがいの青い鱒をおのおのの口に吸い合うのです。
わたしたちの吐息はおおむねわたしたちの手によって黒くされているのですから、わたしはお兄さまの書き物机の鍵を井戸にしずめて、あなたはわたしの衣裳箪笥の鍵をポケットにひそめて、ときどき子供みたいにくすくすわらっておたがいの孤独の不意を襲っては、わたしたちの凄惨な美貌をおたがいの胸乳に、ときどき子供みたいにくすくすわらっておたがいの孤独の不意をついては、わたしたちの凄惨な無気力(アパテイア)をおたがいの苦悩(アゴーニア)に、まるで交尾して果てることのない恋人みたいに、まるで交尾していつ果てるともしれない恋人みたいによりそわせ合うのです。
千慶烏子『Vernissage Volume 1 - Le célibatair broie son chocolat lui même -』P.P.Content Corp.初版 pp. 6-7 1997年06月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
男は鳥の滑空についてわたしに語りはじめるだろう。防波堤と時のゆるやかな腐食について男はわたしに語り聞かせるだろう。男の胸にゆだねられたきささげの白さを、男の胸にかさねられたわたしの胸の透けるような白さを、それとも男は愛したのだろうか。それとも騎乗する肉体のたけだけしさを男は愛したのだったろうか。ときおりその口唇にあたえられ、あたえられてはのがれてゆく乳房のはずみ、ときおりその口唇をあかるませるわたしの胸のあわい暈、その乳暈にくれそめた午後の日のおだやかな翳りを男はいっそう愛したのだろうか。肩からおちる髪と海のにおいをそれとも男は愛したのだったろうか。しなだれた茎のようなものがあわあわしく乳状に拡散するそのせつな、しなだれた茎のようなものがいらだたしく起き立ち、自刎するようなはげしさで飛び散ってゆくそのせつな、叢の一端からはじまり、やがてはじまりもおわりも不透明に見うしないつつ、海洋の彼方ばかりがおぼろげにこだまするそのせつな、わたしのくちびるはたしかに男のそれとかさねあわされていたのだろうか。男の苦悶のみずみずしい訴えは、折ってひらかれたわたしのからだにいそしぎのかたちでかさねあわされていたのだろうか。その鳥の名前。みずみずしくも黒い太陽とわたしは言い、いつも怯えてばかりいる臆病な侏儒、とわたしは言い、みちよせる潮のおごそかなひびきを聴きながら、寝台によこたわるまでわたしはそれを待てないといった。
千慶烏子『Vernissage Volume 2 - J'écris mon mom』P.P.Content Corp.初版 pp. 16-17 1997年08月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの黒い上着を着けて、おのおのの美貌に優しい吐息をさまよわせあうのです。あなたは妹の黒いリボンを解き、わたしはお兄さまの項に細い指をすべらせて、おのおのの瞳にかくされた朔の月をななめにあおあおと抱き合うのです。そうして海へとむかう鎧戸の錆びついた錠前をおとし、夜ともなれば音もなく更けてゆく蜜月の古い扉をおとして、あなたはあなたで古拙な十二音綴の詩行のもとに、わたしはわたしで重々しい六歩格の詩行のもとに、おたがいの二つとない死を奪い合っては、おなかの底まで凍えるような接吻の吐息におのおののからだを密かに委ね合うのです。
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいのお馬をどうどうしあうのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をむすんで、いつまでも勃起してはてないおたがいのお馬をやさしくどうどうしあうのです。雨のしずくか水泡のようなつばきを吐いて勃起しているおたがいのお馬を、まるでやさしい陰茎みたいにわたしは口なぶりをしてさしあげて、あなたはあなたでやさしい指なぶりのつれづれに厳粛な口づけをほどこしてくださって、こんどのお馬はひどくひよひよいたしておりますね、などとときどき顔を見合わせてはおたがいくすくすわらうのです。
千慶烏子『Vernissage Volume 1 - Le célibatair broie son chocolat lui même -』P.P.Content Corp.初版 pp. 14-15 1997年06月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
そしてわたしは男のなかで小さな呻き声をかすかにもらす。ながく尾をひく糸のなかばで断ち切られたような声をわたしはあげる。肩口に降りかかる枯れ葉をこまかく吹きはらうような息の乱れを、わたしはする。それはわたしのからだの遠いところ、わたしのからだのひどく遠いところからそれははじまり、護岸をなめる潮のひびき、葦の湿原を吹きまよう風の音色、深まる夜の岸から岸へと吹きいそぐ、おそらくはかささぎらしき鳥の声、そしてゆるやかに満ちよせ、たちどころにしりぞいてゆく男の息、そのあわあわしい白い水脈、そのかすかな満ち干、ながい跡を曳くそのあたたかな口唇にみちびかれて、わたしの声は、わたしのからだを這い、あるいは腋窩をつたい、わたしの胸のたかまりのそこに、小さな暈をひらく。そう。わたしの乳房のたかまりのそこに。男の息にうながされるままに。あなたの吐息はとても饒舌だとわたしは言う。あなたの瞳はとてもよく出来ている、とわたしは言う。もしかするとわたしは、あなたの瞳を愛しているのかもしれない。もしかするとわたしは、あなたに抱かれるままにわたしを見ているのかもしれない。あなたがわたしにひもといてくれるさまざまな光景とひとつになって、わたしのからだを、あなたと共有しているのかもしれない。わたしは言う。幼いころ、フライブルグの伯父さまに連れられて、よく湖へと行ったものだ、そこではとても大きな魚が釣れるのだ、と。
千慶烏子『Vernissage Volume 2 - J'écris mon mom』P.P.Content Corp.初版 pp. 26-27 1997年08月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの美貌におのおのの名前を呼び合うのです。あなたは妹の黒い喪章をつけ、わたしはお兄さまの黒い腕章を結んで、おたがいの美貌にやさしい指尖をさまよわせあうのです。そうしてあなたは、お美しいあなたの美貌とうりふたつの妹の美貌にあなたの名前をお呼びになって、わたしはわたしで、わたしのお顔とうりふたつのお兄さまの美貌にわたしの名前をお呼びして、そうしてくすくすわらってひとつの吐息に縺れ合ったり、吸う息のあいまあいまに吐く息を取り違えたりもしながら、ひどくつつましやかにおたがいの名前を交換するのです。
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの黒い喪章をつけて、おたがいの瞳におのおのの美貌をゆだねあうのです。あなたは妹の黒い呼称をおび、わたしはお兄さまの黒い名前をつけて、おたがいの美貌におのおのの名義をゆずりわたすのです。わたしはわたしでお兄さまのきよらかな胸乳にあなたの妹の潤沢な乳房を指なぶりして、あなたはあなたで妹のまるいおなかにお兄さまの陰鬱な徴表を貸し与えて、そうしておのおのの瞳のまぶしい人称の縺れのさなかに、防壁という防壁、供廊という供廊のことごとくが、まぶしく水びたしに溶け崩れてゆくのを、くすくすわらって鎧戸の向こうに遠く望見するのです。
千慶烏子『Vernissage Volume 3 - J'écris ton mom -』P.P.Content Corp.初版 pp. 10, 23 1997年10月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
わたしは瞳をとじるだろう。瞳をとじて男に接吻をあたえるだろう。海洋をめぐる一連の感情が、わたしの口腔に揮発するのをわたしはそこに見るのだろうか。夜をめぐる不毛なくりかえしが、わたしの瞳にまぶしく息を吹きかえし、わたしのからだにあふれるような樹木の枝をはりひろげてゆくのを、たしかにわたしは見いだすのだろうか。岸によせる潮のひびきがわたしのからだをみずみずしくうるおし、男の息にみちよせる潮の音色がわたしのからだのくまぐまをみたし、そこに、わたしの胸のたかまりのそこに、わたしの息のゆたかさのそこに、わたしのからだの奥深さのそこに、男のからだが、男の息がまざまざとある、そのようなあわあわしい近さのもとで、あるいはそのような至近のゆたかさのもとで、奇妙に明るい遙けさがわたしの瞳にひらかれてゆくのを、たしかにわたしはみるのだろうか。遠いというその遠さが、近さとわかちがたく結びついたそのような明るい遙けさのなかで、遠いというその遠さがなによりもここ、ここにおいてひらかれてゆく、そのようなまばゆい遙けさのもとで、わたしのからだはおぼれるような緑のゆたかさにふるえ、あふれるような光のゆたかさにふるえ、眼をかたくつむって足の尖まで萌え立つ緑のしずくでいっぱいにしてしまうのを、たしかにわたしは見るのだろうか、わたしは男に接吻をあたえる。瞳をとじて男にわたしは接吻を与える。海の涯ての鴨の翼が、しめっているのはほんとうかもしれない。
千慶烏子『Vernissage Volume 4 - Represéntation』P.P.Content Corp.初版 pp. 12-13 1997年12月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
デジェネレのわたくしはすこぶる退嬰的なデラシネの羊です。デジェネレのわたくしは骨抜きにされたごちそうの贅沢な羊です。およそ眠ろうとしても眠れない陰萎の岸辺に係留されて、わたくしの眠りははなはだ不毛な金羊毛をたれているのが日常ですから、わたくしの不眠の散弾勃起は数えられたごちそうの羊の数だけ等差級数的に淫するわたくしの辟易です。数えられたごちそうの羊の数だけ増殖無惨に韻するわたくしの悪癖です。さしずめお眠りになられた陰嚢皇后は、わたくしどもの困惑の道標に蜜をこぼして叱られている喪のながい架空の代理人です。
おおむねわたくしの言葉は耳のうしろを切りすぎるのですから、わたくしのからだは摘発された性愛の陰気な勃起です。おおむねわたくしのからだは脈をとられたままになっているのですから、わたくしの陰萎の神聖勃起はいささか度の過ぎた高利回りの喫緊の担保です。なにぶんにせよ借入における名義の変更は不断につつしまれねばならないのが原則ですから、憤懣やるかたないわたくしの錯乱受胎は、おなかの黒いわたくしの傍白、陰気な耳のわたくしの詮索、わたくしの夜の片意地な訴求につねづねいかがわしい複利をなしている市場原理の盲目の芽です。
千慶烏子『Vernissage Volume 5 - Ça / mon corps -』P.P.Content Corp.初版 pp. 26, 27 1998年02月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
わたしの樹木は海のひびきを聴いてはぬれるのだ。わたしの樹木は潮のかげりを聴いてはぬれるのだ。眼をかたくつむって足の尖まで萌え立つ光のしずくでいっぱいにしてしまうのだ。存在が悲しみに固執する、あるいは存在が悲しみにもやわれてある、およそそのようなありかたをよぎなくされた悲しみのなかで、あるいは悲しみに光がとらわれてある、さわさわとほどかれつつ悲しみに存在がゆだねられてゆく、およそそのようなありかたをよぎなくされた光のなかで、わたしの樹木はすみずみまで枝をのばして、足の尖まで萌え立つ緑のしずくでいっぱいにしてしまうのだ。葉末のさきまで萌え立つ光のしずくでいっぱいにしてしまうのだ。そうしていまだみちわたらぬ海洋の、あるいはみちたりてはつかのまにしりぞく海洋の、そのかぎりない豊かさのなかで、そのかぎりない近さのなかで、わたしはおとうとに、おとうとのようなわたしの息子に、いつまでもひよわな子供のようなわたしの男に、わたしの悦びと悲しみのすべてをおくるだろう。わたしの夜にたたまれた海のすべてを男にひもといてみせるだろう。わたしの悲しみと夜のすべてを男に贈り与えるだろう。あたかも海のひろがりが、乗り越えまた乗り越えられる波のけだるい遍満に満ち、ひとつの波頭が、おだやかな遍満と悲しみのなかで、母でありまた娘でありして、その内懐に海の全容をかかえているように。あるいは娘でありまた母でありして、そのたたなずく波頭のくりかえしのもとに海の全容を抱えているように。
千慶烏子『Vernissage Volume 4 - Represéntation』P.P.Content Corp.初版 pp. 40-41 1997年12月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)
*続きはPDF版『Vernissage』でお楽しみください。
ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。
──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)
ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓をふるわせる──。
デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。 人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか──。予断を許さない大胆な構成のもとで繊細かつ多感に繰り広げられる千慶烏子の傑作長編詩篇『デルタの恋』。
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。
Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。