TADAÇA

TADAÇA ch.3 n°4

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

写真は見る人を見つめ返す。写真を見る人の眼差しはしばしば写真のうえに折りかえされる。わたしたちは写真を見るとき、さながら写真に見つめられるようにしてそれを見る。わたしたちは、見るべくして写真を見ているつもりであるが、しばしば見られるべくしてそれを見る。カメラという外在的な他者の眼差しが、見る人をまた見られることの可能性へと差し向けるためだろうか。密度の高い闇のなかで木目の模様を覗き込んだり、壁の染みを飽かず眺めつづける子どものように、わたしたちは写真の肌目を覗き込み、食い入るようにしてそれを見る。だが案に相違して、わたしたちはそのイマージュに見つめ返され、その光の染みに覗き込まれ、そこに、その紙の上に、そのつややかな印画紙の上にわたしたちを映しこまれてしまう。Fixerと言う。定着である。ダゲールが暗い部屋にゆらめく光を銀の板に定着するテクノロジーを発明してから、光は、その物質的な痕跡の物質性を唯一の論拠として、見るものを見据えてはなさない。写真を見る人は、あたかも魅入られるようにしてそれを見る。時として見入ることがまた魅入られることででもあるかのようにそれを見る。光によって impressioner されたイマージュが見る人を impressioner する。光を感じやすいフイルムの上に定着され、印しづけられたイマージュが、ふたたび反転像として紙の上に焼き付けられるとき、見る人の脳裏にそれはつよい印象をあたえる。わたしたちは写真を見るとき、まるで感光性のよいフイルムのようにそれのもたらすイマージュに対してはなはだ感じやすい性質をおびるようになる。Impression、もしくは répression。その数度にわたるimpression。写真は、奇妙なことだが、しばしばわたしたちに、卒然として、海に波があるということの、あるいは海には潮があるということの、あるいは遠からず近からずしてそこに海があるということの、不意打ちにも似た驚きを告げ知らせる。前触れもなく訪れてくるもの。あたかも南天に的礫と固定(フィクセ)された満月が満ち潮(フリュ)を呼び寄せるように、そこに固着した痕跡は、わたしたちの海面をしずかに引き上げ、わたしたちはしずごころなく息を入れられる。言葉の正確な反照がみちびくとおり、fix は flux をよびおこすのだということ。

TADAÇA ch.3 n°5

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

あなたはその女の胸を吸う。その女の胸のあわいなでしこの蕊をあなたは吸う。その女の腋のすこしばかり湿った暗さをあなたは吸う。愛しい女の肌もあらわなその場所に触れつつ暮れる夏の日のあまいかげりをあなたは吸う。ときどき吹きみだれるその女の髪があなたのほほをかすめることもなく、ときどき耳朶にぬれるその女の髪があなたの指をこばむこともなく、ひだりにむけ、そびらをかえし、あなたのそこに、その口もとに、またその耳もとに、その女の息を散らすあなたがたの夏の臥床にあなたは吸う。みずみずしくひもとかれたその女の肌のしずかなうるおいがあなたのうなじにめぐらされ、もうとうにはだかであることにも飽いたその女の脚があなたのそこにめぐらされ、まるで毛のないけものが縒れあうようにおたがいのしずくをわかちあうあなたがたのそこに、さなきだにおごるがごときあおあおしさをましてあなたのそれは匂いたつのであろうこと。あわあわしく、またあらあらしくたける夏草の、そのにおうがごときあおあおしさを、その女はしずかに水辺へと、そのほとりへと、その女の水面にうつる夏の日のかげりへといざないつつ、ひとしおそこにあなたの口づけをもとめるのであろうこと。吸ってほしいという。口を吸ってほしいとその女のいう。いまいちどそこにあなたの口がほしいとその女はいう。そう。そうして、そのようにして、おたがいの息のあふれるところをかさねあわせて、あなたがたは、その時がまさにその時であるということの、そこがまさにそこであるということの、よろこびにみちて、しあわせにみちてする、それ。

TADAÇA ch.3 n°6

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

花それじたいの美しさについてわたしはよく知らないが、写真に撮られた花の美しさについては多少なりとも知悉していると言えようかもしれない。もっともそれは、眠りに落ちた者の眠りをさざなみだてるようなありかたで知悉しているということであり、よく言えば知らないということである。あるいはそれは、掘り起こさなければ現われることをしない泉のようなものとして知っているということであり、またしたがって、そこにあるという確信のもとで確かには知らないということでもある。ロバート・メイプルソープの「静物」の美しさはわたしを魅了する。その刻々としりぞいてゆく光につかのまの静止をよびかける「静物」の美しさは見るものを魅了する。それは美しい。それは花である。そのカラーリリィは、花であることにもまして光であることを知らない花である。あるいはそれは、花であるまえに光であることを知らないでいる花の慄然とした美しさである。それは花の美しさであり、しかしながらそれにもまして、それは光の、あるいは写真の美しさである。そのはかなさは花のはかなさではあるが、それ以上にそれは、光の、あるいは写真のはかなさである。ロバート・メイプルソープがそこに写しとどめているのは、花ではなく光である。これ以上つよく差せば白く立ち枯れてしまい、またこれ以上おぼろげであったならば、その陰のもとにしりぞいてしまい、白く飛びすぎる白さと暗く陰りすぎる暗さのなかで、カラーリリィは茫然としてそこに立ち尽くしているのである。静物が光を受け容れることのむずかしさ、そしてまた光を拒むことのむずかしさ、そのはざまでカラーリリィは如何ともしがたく花であり、光を拒むことのむずかしさとその拒まれがたさのはざまで、あるいはその受け容れがたさと受け容れられがたさのはざまで、それはせきららなまでにはだかにされているのである。写真というせきららさ、もしくはそのポルノグラフィーとしての崇高さ。おしなべて、せきららであるということは、光のなかに投げ出されてあるものが抱くある痛ましさの感情であるが、またそれは、光のなかに投げ出されてあるものにむけて見る人が抱く痛ましい共感の感情でもある。せきららであるということ、それは如何ともしがたく孤独である。

TADAÇA ch.3 n°7

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

そのようにしてあなたはしたのだろう。そのようにしてあなたはそこにするのだろう。みちたりてはつかのまにしりぞいてゆくその女の息のはずれにおいて。こっこくとして更けてゆくあなたがたの夏のそのいまそのときのただなかにおいて。海をへだてたあなたがたのメゾンの、その小さな愛の砦のただなかにおいて。あなたはそのようにしてしたのだろうし、またそのようにして、あなたはその女としたのだろう。あなたがたの息のあふれる光のただなかにおいて。ひもときつつしたためる、あなたがたの息の美しいもつれのただなかにおいて。したためつつひもとかれる、そのような息の、ひもとくことがまたひもとかれることであり、またしたためることがそれじたいにおいてひもとくことでありもしよう、そのような息の美しいゆらめきのただなかにおいて。こっこくとして暮れてゆくあなたがたのそこに、おぼろげにしりぞいてゆく光をあなたはこのよにもなく美しいとおもうのだろう。そのしずかにかすみわたるあなたがたのそこに、とおどおしくみちよせる潮のひびきをあなたは美しいとこのよにもなくおもうのだろう。時のみのりがみのるとすればかくもあろうというありようのもとで、あわあわと暮れてゆくあなたがたの光を、あなたは、そのようにしてその女のそこに火ともすのだろう。とどこおることなく、またくりかえすことなくすぎゆくものであるにちがいなかろう時と光に、ゆるやかにみちよせる潮と息とのくりかえしを点じて、あなたはそのようにして、つかのまにしりぞくこのいまこのときのこっこくの光をたとしえもなく美しいと思うのだろう。

TADAÇA ch.3 n°8

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

光に対するある疎遠さの感情、もしくは明るさに対するある名伏しがたい死の予感。イマージュは潜伏する。あるいはそれは遅延する。見ることの愉楽にみちた「暗い部屋」のなかで揺れ動いていた光とイマージュは、写真機という暗い部屋のなかでは、深く沈潜することを宿命づけられている。光を感じてそこにその物質的な痕跡をとどめながらも、それはいまだあらわれることをしない。写真機という光の差さない暗い部屋。それは、感受性のゆたかなフィルムを守るために、あるいはそこに潜伏したイマージュを擁護するために、構造上一瞬のまたたきを除いては一切の光を遮断するように設計されている。「暗室」と呼ばれるもうひとつの暗い部屋、そのなかでイマージュがゆるやかに発育するまで、あるいはみずからをひもときつつあらわにするまで、つまり「現像」処理が施されるまで、イマージュは遅延、もしくは潜伏することをみずからの宿命として従わなければならない。二度にわたる impression と révélation。もしくは数度におよぶそのそれ。現像処理ののち印画紙に焼き付けられたイマージュは、おしなべて写真というものが具えてしかるべき崇高なポルノグラフィーとしての崇高さをそなえているが、潜伏するイマージュ、つまり未現像のフィルムに印しづけられた潜像(latent image)は、そのせきららさに対する恥じらい、もしくは戸惑いの時間のなかで深い眠りにおちているのである。いまだ来たらぬ時にむけての、もはや過ぎ去ってしまった時のはるかな面かげをそこに宿しつつ、あるいはやがて来たれかし啓示のときにむけての、今はなき面影をそこにとどめながら。潜伏するイマージュは、ある明るさに対する飽くことを知らぬ憧れのなかで、あるいは写真機という彼の暗い部屋のなかで、彼自身の幼年期であるところの羞恥と困惑と、いままさに失われつつある希望の夢を静かに夢見ているのである。――遅ればせにひもとかれることにむけての、あるいは失われた時であり、またいまだ来たらぬ時でもある、それ。

*続きは電子書籍版『TADAÇA』でお楽しみください。
2011年版収録パンフレット「書物の自由と尊厳のために」

BOOKS

千慶烏子『TADAÇA』

TADAÇA

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

人類の歴史にはじめてインターネットが登場したときに、人はどのような未来をそこに見いだし、詩人はどのような書物をそこに創造したのか──。

二十一世紀初頭、インターネット草創期に先駆的なデジタル出版で海外から高い賞賛が寄せられた千慶烏子の『TADACA』。傑作と名高い第三章「La Chambre Numerique」を含む全四章を完全収録。この不可能な挑戦、この孤立無援の行程のもとで行われたデジタルの内面化の過程を通して、デジタルははじめて人間的なものになる。──ここにあるのはデータにすぎない。しかしそれは何よりも貴重な歴史の証言であり、また書物という人類の英知の賜物なのだ。

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千慶烏子『やや あって ひばりのうた』

やや あって ひばりのうた

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-03-9, 978-4-908810-10-7

天使との格闘──。詩的表現のはじまりに横たわるかくも美しく破壊的な神話的光景。書くことを呼びかけるものと呼び止められて詩を書く詩人とのあいだの原初的な闘争の光景。詩人は溢れんばかりの才能を駆使して「天使との格闘」に立ち向かう。日本の九十年代を代表する傑作と絶賛された千慶烏子の『やや あって ひばりのうた』。

あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの胸乳をおのおのの口に吸い合うのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をしめて、おのおのの口に青い鱒をつりあげるのです。水しぶきをあげて勃起している青い魚をおたがいの口にさがしあてては、それをおのおのの口に吸い合うのです。そうしてあなたはわたしの野良猫のようにまるいおなかに、そうしてわたしはお兄さまの牝猫のようにきれいなおしりに、杜撰な虚言を突き立てあってはおたがいの青い鱒をおのおのの口に吸い合うのです。(本書より)

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千慶烏子『アデル』

アデル

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-28-2, 978-4-908810-02-2

ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。

──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)

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