男は鳥の滑空についてわたしに語りはじめるだろう。防波堤と時のゆるやかな腐食について男はわたしに語り聞かせるだろう。男の胸にゆだねられたきささげの白さを、男の胸にかさねられたわたしの胸の透けるような白さを、それとも男は愛したのだろうか。それとも騎乗する肉体のたけだけしさを男は愛したのだったろうか。ときおりその口唇にあたえられ、あたえられてはのがれてゆく乳房のはずみ、ときおりその口唇をあかるませるわたしの胸のあわい暈、その乳暈にくれそめた午後の日のおだやかな翳りを男はいっそう愛したのだろうか。肩からおちる髪と海のにおいをそれとも男は愛したのだったろうか。しなだれた茎のようなものがあわあわしく乳状に拡散するそのせつな、しなだれた茎のようなものがいらだたしく起き立ち、自刎するようなはげしさで飛び散ってゆくそのせつな、叢の一端からはじまり、やがてはじまりもおわりも不透明に見うしないつつ、海洋の彼方ばかりがおぼろげにこだまするそのせつな、わたしのくちびるはたしかに男のそれとかさねあわされていたのだろうか。男の苦悶のみずみずしい訴えは、折ってひらかれたわたしのからだにいそしぎのかたちでかさねあわされていたのだろうか。その鳥の名前。みずみずしくも黒い太陽とわたしは言い、いつも怯えてばかりいる臆病な侏儒、とわたしは言い、みちよせる潮のおごそかなひびきを聴きながら、寝台によこたわるまでわたしはそれを待てないといった。
わたしのからだは折ってひらかれた葦の茎のかたちのようになり、その折り目のあわただしい線分の行き交うところに、その線分のいかがわしく折り重なるところに、男の接吻がおしあてられ、男の唇がしるしをつけるのを、わたしはさざめく海のひびきのなかに聴いたのだろうか。男の舌がうるおいをまし、うるおいをましてわたしの線分をにじませ、わたしの折り目をゆるやかにおしひろげてゆくのを、わたしはさざめく海のひびきと風の鳴き音のさなかに聴いたのだろうか。男はわたしの名前を呼ぶのだろうか。それとも男の名前をわたしはくちどに叫ぶのだろうか。海のひびきがつよくなり、風の鳴き音がするどさをまし、わたしたちの名前はさいざいしい樹木の葉ずれの音にかきけされて、やがて夜のふかみのなかに失われてしまうのだっただろうか。わたしたちの呼び交わす名前は、おたがいの舌に何らの痕跡をしるすこともなく、おたがいの瞳に何のしるしをうけおうこともなく、夜のふかみのなかに失われ、潮のひびきのなかに見失われてゆくのだっただろうか。男の接吻はふかみをまし、それでも男の接吻がいらだたしさをまし、わたしのそこに、おおきくひろげられたわたしのそこに、同意の舌をもとめて、ふかぶかとさまよわせるにおよんだとき、男の声が、もはやそこにない男の声が、わたしの名を呼ぶ男の声のきれぎれのあえぎが、おびただしい映像の砕片とともに、わたしのからだになだれこんできたのはいったいどうしてなのだろうか。
わたしは男に言うのだろうか。わたしは男に言ったのだろうか。ながらく鎖ざされていた夜のとばりかゆるやかにひらかれ、わたしたちの夏の光がしずかに抱き合って降りてくるのを、わたしはそこに見たのだと。海沿いの街の午後の光がわたしの口腔にとけてひらかれ、七月の樹木のゆたかな光がわたしのからだを明るませてゆくのを、たしかにわたしはみたのだと。あなたは少しも変わっていない、男はわたしに言うだろう。あなたは少しも変わらない人だと男はわたしに言うだろう。わたしは瞳をとじるのだろうか。瞳をとじて男にわたしは言うのだろうか。それとも接吻をあたえるのだろうか。あれからどうしていらっしゃったのか。あなたはあれから、どのように過ごしていらっしゃったのか。男はわたしに言うだろう。わたしは男に言うだろう。あなたはわたしから遠ざかりすぎて、わたしにあまりにも近づきすぎた。わたしは男に言うかもしれない。あなたはわたしの遠くにあって、いつもわたしのかたわらにたわむれていた。わたしは男に言うのだろうか。あなたの唇は、いつもわたしのくちびるのかたわらで、よそよそしくみだらにたわむれていた、と。あなたのお父さまは、まだずいぶんお怒りですか、男はわたしに言うだろう。あなたのお父さまは、まだずいぶんお怒りなのですか、それを遮って、もう一度、もう一度だけとわたしは言う。言葉では、父の薦めにしたがって、ある男のもとに嫁いでからもうかなりになる、そう言いながら。
わたしは瞳をとじるだろう。瞳をとじて男に接吻をあたえるだろう。海洋をめぐる一連の感情が、わたしの口腔に揮発するのをわたしはそこに見るのだろうか。夜をめぐる不毛なくりかえしが、わたしの瞳にまぶしく息を吹きかえし、わたしのからだにあふれるような樹木の枝をはりひろげてゆくのを、たしかにわたしは見いだすのだろうか。岸によせる潮のひびきがわたしのからだをみずみずしくうるおし、男の息にみちよせる潮の音色がわたしのからだのくまぐまをみたし、そこに、わたしの胸のたかまりのそこに、わたしの息のゆたかさのそこに、わたしのからだの奥深さのそこに、男のからだが、男の息がまざまざとある、そのようなあわあわしい近さのもとで、あるいはそのような至近のゆたかさのもとで、奇妙に明るい遙けさがわたしの瞳にひらかれてゆくのを、たしかにわたしはみるのだろうか。遠いというその遠さが、近さとわかちがたく結びついたそのような明るい遙けさのなかで、遠いというその遠さがなによりもここ、ここにおいてひらかれてゆく、そのようなまばゆい遙けさのもとで、わたしのからだはおぼれるような緑のゆたかさにふるえ、あふれるような光のゆたかさにふるえ、眼をかたくつむって足の尖まで萌え立つ緑のしずくでいっぱいにしてしまうのを、たしかにわたしは見るのだろうか、わたしは男に接吻をあたえる。瞳をとじて男にわたしは接吻を与える。海の涯ての鴨の翼が、しめっているのはほんとうかもしれない。
*続きは書籍でお楽しみください。
『やや あって ひばりのうた』ペーパーバック
『やや あって ひばりのうた』Amazon Kindle
『やや あって ひばりのうた』Apple Books
『やや あって ひばりのうた』Google Play
『やや あって ひばりのうた』Rakuten Kobo
『やや あって ひばりのうた』Book Walker
天使との格闘──。詩的表現のはじまりに横たわるかくも美しく破壊的な神話的光景。書くことを呼びかけるものと呼び止められて詩を書く詩人とのあいだの原初的な闘争の光景。詩人は溢れんばかりの才能を駆使して「天使との格闘」に立ち向かう。日本の九十年代を代表する傑作と絶賛された千慶烏子の『やや あって ひばりのうた』。
あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの胸乳をおのおのの口に吸い合うのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をしめて、おのおのの口に青い鱒をつりあげるのです。水しぶきをあげて勃起している青い魚をおたがいの口にさがしあてては、それをおのおのの口に吸い合うのです。そうしてあなたはわたしの野良猫のようにまるいおなかに、そうしてわたしはお兄さまの牝猫のようにきれいなおしりに、杜撰な虚言を突き立てあってはおたがいの青い鱒をおのおのの口に吸い合うのです。(本書より)
ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。
──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)
思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。
Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。