POE-DECO

初 恋

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-05-3, 978-4-908810-27-5

幼いころ鳩の鳴く声が聞こえるのは自分だけだと思っていた。誰に訊いても知らない振りをするし、兄は耳を引っ張ってからかうし、母は額に手をさまよわせて幼い我が子の心配をしたものだった。だから彼女が話の途中で辺りを窺うよう促して、鳩の鳴き声がすると言ったとき、僕が彼女に恋をしたのも当然だった。イダは聴覚に優れていたので、十秒だけ未来の物音を聞き取ることができた。耳を澄ませば三十秒先まで未来を聞き取ることができるかもしれないと彼女は言った。それはちょうど風に乗って汽笛の音が届くように、十秒先の未来の物音が時空の襞を通り抜ける風に乗って彼女の耳に届けられるのだった。イダは僕が愛を告白する三十秒前から僕の気持ちを知っていたけれど、初めて聞く振りをして僕の言葉を受け止めてくれた。僕は彼女にこう訊いたものだ。何秒前から知っていた、十秒前から、二十秒前から、それとも三十秒前から。僕が彼女に訊ねるとイダはこう答えてくれた、生まれた時から知っていたわと。僕たちは初めてキスというものを経験し、お互いの瞳のなかにお互いを発見して驚くのだった。二人は何をするというわけでもなく、ただ一緒にいるだけで幸福だった。どうすれば未来を聞くことができる、僕が彼女に訊ねると、イダは時空に襞を寄せるのだと教えてくれた。セーターの袖を捲くったり伸ばしたりして彼女は詳しく説明してくれたけれど、僕は腕捲りをした彼女の白い肌に見惚れているばかりだった。それからしばらくして、僕たちは些細なことから喧嘩をして、いつのまにかお互いを遠ざけるようになってしまった。彼女が先回りをしすぎたのか、僕が彼女から遅れてしまったのかはわからない。大人になってから一度大通りの向こう側で手を振っているイダを見て駆け寄ろうとしたことがある。しかし遠い交差点を渡って彼女のいた場所に僕が辿り着いたときには、イダはもうそこにはいなかった。おそらくイダはその後僕たちが交わすことになる会話を先回りして聞いてしまったにちがいない。その時には僕たちはもう十分すぎるほど大人になっていた。彼女は大人になってしまった二人の会話を聞いて姿を消したのではないかと僕は思うのだ。僕は今でもふとした折りに彼女を思うことがある。イダはまだ三十秒先の未来を聞き取ることができるのだろうか。彼女に娘がいるとして、その娘はイダの遺伝子を受け継いで聴覚に秀でているのだろうか。そして、僕たちが再び出会うことはあるのだろうか。もし僕たちが三十秒以内にお互いの気持ちを伝えることができる場所で遭遇したならば、もしかすると二人は新しい時間を始めることができるかもしれない。しかし、大人になりすぎた僕たちにとって初恋というものがいつも遠く物悲しいのは、この三十秒が永遠とも呼ぶべき長い時間であることを誰もがみな知っているからなのだ。(千慶烏子『ポエデコ』所収)

*続きは電子書籍版『ポエデコ』でお楽しみください。

BOOKS

千慶烏子『ポエデコ』

ポエデコ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-05-3, 978-4-908810-27-5

自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら…(本文より)

脱現代性の詩的方法論──。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして詩人の作り出した新しい文学上の方法論だ。英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論だ。──対抗的であり、挑戦的であり、攪乱的であるような想像力のかたち。千慶烏子のポエジー・デコンタンポレヌ。珠玉の三十篇を収録。

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千慶烏子『アデル』

アデル

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-28-2, 978-4-908810-02-2

ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。

──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)

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千慶烏子『TADAÇA』

TADAÇA

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-18-3, 978-4-908810-32-9

人類の歴史にはじめてインターネットが登場したときに、人はどのような未来をそこに見いだし、詩人はどのような書物をそこに創造したのか──。

二十一世紀初頭、インターネット草創期に先駆的なデジタル出版で海外から高い賞賛が寄せられた千慶烏子の『TADACA』。傑作と名高い第三章「La Chambre Numerique」を含む全四章を完全収録。この不可能な挑戦、この孤立無援の行程のもとで行われたデジタルの内面化の過程を通して、デジタルははじめて人間的なものになる。──ここにあるのはデータにすぎない。しかしそれは何よりも貴重な歴史の証言であり、また書物という人類の英知の賜物なのだ。

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