子供のころは右目だけで見ると世界は青く見えた。右目を瞑って左目で見ると世界は黄色く見えた。両方の目で見ると、すべては琥珀色にたそがれて見えた。緑と赤の区別がつかないと知らされたのは、僕が学校に通い始めてしばらく経ったころだった。それからは人とは違う色の世界を、他人の言葉を通して眺めることに、僕は特に不都合とも思わないで過ごしてきた。そうしてあまり友達も増えないまま、絵を描くことだけを唯一の楽しみとして迎えた十七歳の誕生日もとうに過ぎたころ、色を分けてあげようかと少女は言った。僕の横に腰を下ろしてエリだと言った。人よりも色が見えすぎて困るのだと彼女は言った。そして僕のスケッチブックを横から取り上げると、鉛筆で手荒に描いたスケッチの部分を指差してここは何色と訊くのだった。僕が返答に窮していると、この瓦屋根のここは遠いマジャルの大地に沈む太陽の色だと彼女は言うのだった。また別の部分を指差して、この草むらのこの色は春まだ浅い木洩れ日に揺れるためらいがちな水面の色だと言うのだった。エリがそう言うと目の前にその見たこともない色がありありと鮮やかに浮かんできて僕は驚くのだった。僕たちはそれから毎日スケッチに色を付けて過ごした。エリは丘の上に寝転がってスケッチブックを開くと、そこに鮮やかな色をくわえてゆく。この錆び付いた雨樋のこの色は初めてダンスを披露するロマの娘が着ていたドレスの色、この波に濡れた防波堤のこの色は部厚く垂れ籠めたベルリンの退廃的な空の色、この裏庭の繁みのこの色は早すぎる夏の訪れに慄いて緑を深くする若葉の色。こうして色の少ない僕の世界に色が増え、日ごと輝きを増してゆく世界のなかで僕は有頂天になっていた。僕の世界が鮮やかさを増すにつれて、彼女の肌が青ざめてゆくのを僕は知らないでいた。彼女の身体に兆した変化に僕は気づかずにいた。なぜなら、僕にとってエリの唇は、いつも初めての口づけに戸惑う少女の唇の色をしていたからだ。それが日に日に青ざめてゆくのを僕は気づかずにいた。大人たちは気づかって僕に彼女の病を知らせないでいた。しばらく会えないからと告げに来て再会したときには、エリは帽子をかぶってひとり病室で眠っていた。それから僕は毎日病院に通った。そして描き溜めたスケッチに二人で色を付けた。この桟橋のここは夕焼けのなかを飛ぶかもめが見た海の色、この灯台のこの屋根の色は真夏の空を焦がす太陽の色、この水平線に霞む空の色はやがて僕たちが旅立つまだ見ぬ世界の憧れの色。しかし、色付けの完成を見るまでもなく、彼女は遠くへと旅立ってしまった。僕が最後に見たエリは、暗い部屋のなかで、初めての恋に慄える少女の夢みがちな頬の色をしていた。それは僕が初めて恋をした少女の頬の色だった。大人になった僕は今でもしばしばこの未完成のスケッチブックを眺めながら思うのだ、世界は何と美しく多彩な色に満ちていることだろうかと。(千慶烏子『ポエデコ』所収)
*続きは電子書籍版『ポエデコ』でお楽しみください。
色を分けてあげようかと少女は言った。僕の横に腰を下ろしてエリだと言った。人よりも色が見えすぎて困るのだと彼女は言った。そして僕のスケッチブックを横から取り上げると、鉛筆で手荒に描いたスケッチの部分を指差してここは何色と訊くのだった。僕が返答に窮していると、この瓦屋根のここは遠いマジャルの大地に沈む太陽の色だと言うのだった。また別の部分を指差して、この草むらのこの色は春まだ浅い木洩れ日に揺れるためらいがちな水面の色だと彼女は言うのだった…(本文より)
脱現代性の詩的方法論──。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして詩人の作り出した新しい文学上の方法論だ。英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論だ。──対抗的であり、挑戦的であり、攪乱的であるような想像力のかたち。千慶烏子のポエジー・デコンタンポレヌ。珠玉の三十篇を収録。
ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。
──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。(本文より)
君は烏子というものをどう考えるべきなのか――。君はこれを捩子や振子あるいは浮子のようなものだと考えるといい。僕たちの机の右側の上から二番目の引き出しに仕舞われたまま忘れ去られている何か重要なものであり、開けるたびに僕たちを戸惑わせたり混乱させたり魅了したりするあの風変わりで貴重な何かなのだ――。
その独自の作風から「わが国の自由詩の作品史にかつて現れたことがない」と評されるれる鬼才の詩人千慶烏子の処女作品『ねじふりこ』をデジタル出版。二十世紀末、90年代という時代の引き出しの中に仕舞われたまま忘れ去られている重要な何か、読むたびに読者を戸惑わせたり混乱させたり魅了したりする風変わりで貴重な何か――おそらくは、百余の断章で構成される本書の核心に横たわっているのは、この何とも名付けがたい、途方もなくわれわれを魅了するあの「何か」であるにちがいない。烏子と捩子と振子のパノラマ島奇譚。